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「努力」や「頑張り」はどこからやってくるのか

世の中にはたくさんの成功秘話があります。
その中でみんなが称賛するのは「努力」や「頑張り」です。
でも努力がなきゃ成功できないのでしょうか?努力がなきゃ幸せな生活や普通の生活さえままならないのでしょうか?果たしてそれでいいのでしょうか?そんな話をします。

まずは僕の話を少し。

僕はフリーランスの映像ディレクター・カメラマンになってから、とあるお仕事で鬱病を患いました。
その時、同時に診断を受けたのがADHDでした。

鬱病を知らない人はそんなにたくさんいないと思うけれど、簡単に説明すれば「精神に対して大きな負担がかかることで、体が動かなくなったり生きる気力がわかなくなってしまう病気」です。
ADHDは知らない人も多いかもしれません。こちらは「脳内物質や精神のバランスが崩れているために、普通の人が出来ることをうまく行うことが出来ない病気」と言えます。
厳密な定義は書籍やお医者さんに聞くことで知ることが出来ますが今回は割愛します。

要するに「普通の状態」ではなくなったということです。
(ADHDに関してはどうやらもともと持っていた体質だったようです)

今は薬を毎日服用することで普通の人と同じくらいには生活することが出来ています。(たぶん)

そんな感じで病気を実際に経験してお医者さんから言われたのは「無理をしないこと」でした。
風邪とか捻挫とか「直る病気」で「無理をするな」という話ならそんなに驚くことでもないかもしれません。普通に納得できると思います。
でも精神病はそのほとんどが基本的に「完治しない」病気です。「寛解(かんかい)」という病気を受け入れた状態はありますが、完治という考え方はしません。
考えてみればわかるかもしれません。例えば何かトラウマを抱えていたとして、それを一時的に忘れたり、受け入れて前に進むことはできても、それがきれいさっぱりなくなるということは無いわけです。
つまり、どこかにはずっと残り続けるのが精神病です。
特に私の場合はADHDに遺伝的な要因がある可能性がすごく高いです。つまり、精神的なアンバランスより脳内物質のアンバランスによって病気になっている可能性があります。
こうなってくると最早「目に見えない身体障碍」のようなもので、薬の服用も(おそらく)ずっと続くことになります。

完治することのない精神的な障碍を抱える僕に「無理をするな」ということは、「今後一切無理をしてはいけない」ということを意味します。

別に僕だってなりたくて病気になったわけではありません。
でも成り行きで病気になり、その病気のせいで「一切無理してはダメ」という生き方をせざるを得なくなってしまったわけです。
もう選択の余地はありません。「無理はしない」それが僕の「生きていくためのルール」になりました。

実は僕に限らず世の中にはたくさんの「無理をしてはいけない人たち」がいます。


その中には目で見てわかるような病気を抱えてる人もいますし、僕のように目で見るだけでは全く見当もつかない病気を抱えてる人もいます。
数は問題ではありません。そうした人たちが「いる」ということがとても重要です。

さてそうした「無理をしてはいけない人たち」にとって努力とは何でしょう?
あるいは頑張りとは何でしょう?

健康な人たちからすれば努力や頑張りは、非常に単純で明快な「無理してでもやる」ということに尽きるのではないでしょうか。
でも「無理をしてはいけない人たち」はそういう努力や頑張りができません。先述のとおり様々などうしようもない理由で「無理をしてはいけない」のです。

問題はここからです。


健康な人たちが当たり前の生活をするのに努力や頑張りが必要だとするなら、「無理をしてはいけない人たち」が当たり前の生活をするにはどうすればいいでしょう?
答えは簡単です。出来ません。


なぜなら健康な人たちですら努力や頑張りが必要な社会で、「無理をしてはいけない人たち」に太刀打ちする余地はないからです。

ここで「努力や頑張りにもいろんな形がある」と思われた方は、ある意味正しいのです。
しかし、それを求める社会の状態が、果たして良い状態といえるのでしょうか?
それが現実だとして、それすらできない人はどうなるのでしょうか?仕方がないのでしょうか?
あるいは「無理をしてはいけない人」になってしまったのは運の問題で、他人には関係ないでしょうか?
あなたがもしこの先「無理をしてはいけない人」にさせられたときに同じことが言えるでしょうか?
それが例えば自然災害など「どうしようもない不慮の事故」によって引き起こされたら、怒りをぶつける相手はいません。それでも「仕方ない」で片付けられるべきものでしょうか?

僕の答えはNOです。
いいわけありません。仕方なくもないです。
誰がどんな障碍や事情を抱えていようが、すべての人に当たり前のように生活する権利があります。

いや、「権利」なんて話は忘れてください。


「どんな人でも当たり前のように生活できる社会」の方が絶対に健康で、何より「強い」はずです。


今健康で元気のある人でも、いつどんな時にどんな形でその状態が崩れるかわかりません。
でも「どんな人でも当たり前のように生活できる社会」なら心配なんかありません。だって、健康でなくても生きていていいんですから。

逆に健康でなければ生きていけない社会では、健康な人でさえ何か起これば脱落していきます。永遠に安心することもなく、いつ自分が脱落させられるかびくびくしながら生きていくことになるでしょう。
中には自分が生き残るために他人を病気にさせる人まで出てくる始末です。
そんな社会は必ず衰退します。だって「自分がいま生きること」で精一杯な人しかいないんですから。
そんな人が将来を考えられますか?未来のために今我慢したりできますか?無理ですよね。

今、世界にはいろんな問題があります。特に大きな問題は地球温暖化です。
今すぐにでも行動を起こし、生活様式を変えなければ後戻りできないところまで来ています。これは科学者が口をそろえて言っていることです。
でも生活様式を変える余力は、未来を変える力は、「自分がいま生きることで精一杯な人たち」には無いのです。つまり滅びるしかありません。
仮に滅びるとしてもすぐには滅びません。変化は徐々に、だけど確実に訪れます。その間にも子供は生まれるでしょう。その子供たちは「自分が生きることで精一杯な人たち(つまり子供たちにとっての大人たち)」のせいで自分たちが苦しい生活を強いられることを知るでしょう。
人が、「人という種」の存続どころか他の種までも滅ぼしたなんてことになれば、最早「生き物の面汚し」です。
「知能の高い生物」が聞いてあきれます。

人は「どんな人でも当たり前のように生活できる社会」を目指さなければなりません。それ以外に人に生き残る方法はないのです。それが本当の現実です。


誰かが生きていくために誰かが犠牲にならなければいけない、なんて話はまやかしです。
むしろ逆です。そんな世界では自分がいつ犠牲にされるかわかりません。生き残るために誰もが「犠牲者を選ぶ人」になりたがる社会になります。そんな社会に希望も未来もありません。

「どんな人でも当たり前のように生活できる社会」を作るためには、健康でない人たちこそカギとなります。たくさんの健康でない人たちの生活を支えられれば、それだけ大きな受け皿があることになります。健康な人たちもそうでない人たちも、「いつ何が起こっても大丈夫」という気持ちで生活を送ることが出来るようになります。

じゃぁ仮にこんな社会が実現できたとして、人は努力や頑張りをしなくなるでしょうか?

そんなことは無いです。なぜか。

「努力や頑張り」と「無理をすること」は、実は一切関係ないからです。

考えてみてください。あらゆる成功体験にはいつも「こうしたい」という明確な目的があります。そして多くの場合、その目的を実現するために「無理をするしかなかった」だけなのではないでしょうか?
つまり、無理しなくてよかったなら、無理しないで目的を達成していたはずです。
「こうしたい」という明確な目的を持つことが大事なのであって、「無理すること」は目的を実現するための選択肢の一つでしかありません。しなくていいなら「無理」なんてしなくてよかったはずです。

努力や頑張りにいつも付随する「無理をすること」というのは、ただ「そうせざるを得ない状況だったから」でしかないわけです。
「無理をすること」は、「努力や頑張る意思を持っている人が必要に迫られたから仕方なくやっていること」に過ぎないのです。

だから「どんな人でも当たり前のように生活できる社会」になったからといって、「人が努力や頑張りをしなくなる」なんてことはありません。
そもそも「無理をすること」の方が、「いらないもの」だからです。

つまり本来、努力や頑張りとは「目的を明確に持ち、その目的に向けて行動をする」ということなのです。無理をすることでは断じて無いのです。


「明確な目的を持つこと」と「その目的に向け行動すること」この二つの条件を満たせば、それは努力であり、頑張りであると私は思います。

未来を思い描いて目的を持ち、それに向かって一つ一つ行動していく。それが努力や頑張りの本質ではないでしょうか。
そして本当はその未来のイメージが魅力的だから、人は他人の努力や頑張りを応援したり称賛したりするのではないでしょうか。

私はまだ自分が「明確な目的を持っている」確信がないです。それでも、未来のイメージを明確にするヒントは多分知っています。

それはきちんと現実を見つめることです。よく知ることです。そして何より今よりももっといい未来を思い描くことです。現在のその先に未来があるのです。だから、今を見つめ、その先を思い描かなければならないのです。

そういう意味で、よりよい世界を望むこと、よりよい未来を切望することが努力や頑張りの種となり、やがて大きく芽吹いていくのではないでしょうか。

なんだか長い割に表題の答えになっていない上、とりとめのない結末になってしまいましたが、今日はこのあたりで終わろうと思います。

皆様のもとによりよい未来が花開きますように。
それでは。

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