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日本の戦後反省~ドイツ参照の稚拙さと日本人の稚拙さ~

 まず最初にこの記事は私の脳内でしか完結していない雑記的なものであることに留意してほしい。

まえがき よくあるドイツ礼賛に付随した日本戦後批判への一考

 よくある日本の戦後反省への批判としてあげられるものとして「日本の戦後反省はなってないドイツを見てみろあんなに素晴らしい。」という文脈を見かける。確かにドイツの戦争に至る反省とその過ちに真摯に向き合う点については非常に学ぶところが多い。ドイツ精神医学会は戦前の障碍者殺害にかかわったことに対することを正式に謝罪したし、ナチス関係者の追放・教育における取組など具体的に挙げればきりがないほど具体的な事例は上げることができる。だが、ここから「ほらドイツはこんなに素晴らしい。しかし、日本はいかん。」この文脈は本当に真摯に日本人は戦後反省をするべきであってそれは「日本人」という大きな括りで、啓蒙的に行うのであれば極めて本質を外した批判であることを指摘したい。

1.ドイツの戦後反省の動機

1-1 戦後ドイツの憂鬱

 戦後直後ドイツ(ここでのドイツは西ドイツのこと。東ドイツはナチ・ドイツとの継続性を否定したためそもそも戦後反省の必要がなかった。)は現在のような「素晴らしい」反省をしていたわけではなかった。官憲にナチス関係者が当然のようにいたし、上述したような精神医学会に関しての謝罪も70年たって行われたものだ。誤解を恐れずに言えば、極めて現在日本と近い状態の「稚拙な」状態であったと言える。ではなぜ今のようなドイツに生まれ変わったのか、それは冷戦構造と周辺諸国との関係があった。

 戦後直後連合国は二度の大戦を引き起こしたドイツに対して、第一次世界大戦後と同じように、いやもっと苛烈な罰を下そうとしていた。いわゆるモ-ーンゲンソープランである。概略としては以下のようなものである。

・ドイツは、2つの国家(北ドイツと南ドイツ)に分割される。
・ドイツの主要な鉱工業地帯であるザールラント、ルール地方、上シレジア(シュレジエン)は国際管理に置かれるか、近隣国家に割譲される。
・ドイツの重工業はすべて解体されるか破壊される。

 この方針に基づいてドイツは未来永劫戦争を行えない国家とするべく徹底的な破壊を行うつもりだったわけである。よく第一次世界大戦戦後苛烈なドイツへの対応からナチスが生まれた反省からドイツに苛烈な懲罰を行わなかったというが、これはこの後結果的なものであって、実際はより厳しいものが戦後直後は突き付けられていた。これに基づきドイツから徹底的に工業力が奪われた。その結果待ち受けていたのはドイツの瀕死である。ドイツは工業製品を輸出その対価として、食料を供給していたが上述のように食を得る手立てを奪われてしまったのである。その結果、カナダ人研究家ジェイムズ・バックの『Crimes and Mercies』によれば、戦後5年間で、ドイツ国内の民間人570万人、東部ヨーロッパから排除されドイツ本土に戻ったドイツ系250万人、戦争捕虜110万人、合計およそ900万人が死んだとされてるほどの大規模な飢餓に襲われた。乳幼児死亡率に至っては1939年の2倍に伸びるなど非常に困窮することとなった。連合国は二度大戦を引き起こしたドイツに対して非常に厳しい態度で臨んでいた。当たり前と言えば当たり前の反応で殺人を犯した隣人に対して今まで通り平気な顔をして暮らせるかという事である。イギリス・フランスは再びドイツが大戦を引き起こす可能性に恐怖していた。特にフランスは国土をドイツによって蹂躙されたこともあって、アメリカがドイツ再工業化・軍備化に舵を切ってからも強く抵抗している。

1-2 ドイツ‐信用=亡国

 この状況は冷戦の幕開けによって変化する。西欧の向こう側にはチャーチルの言葉を借りれば「鉄のカーテン」が引かれ冷戦構造が明確化しだすとアメリカは方針を一転させる。東欧諸国は次々赤化し、特に東欧の一大工業国家であったチェコスロバキアも共産化してしまう。更にフランスにおいては共産党が支持を伸ばすしていた。一方それまで世界秩序を形作っていたイギリスはギリシャ内戦への介入にすら疲弊し、数々の植民地を手放していた。このような状況で欧州全体の赤化阻止など到底できるものではなかった。

 このような状況はアメリカには欧州赤化という悪夢を想起させた。ファシストによって黒染めされた、欧州が今度はコミュニストによって赤染されることなどアメリカからすればまっぴらだというのが正直なところであった。そこでアメリカは西欧に対してトルーマンドクトリンを契機としてマーシャルプランなど様々な形で西欧自由主義陣営への肩入れを行う。ここで問題となったのはドイツの存在である。アメリカとしては今後の欧州戦略においてはドイツの工業力・地理的位置からしても「従来の戦争のできないドイツ」のままでは困ったわけである。

 (ドイツは地図で見ればわかる通り、東西冷戦の最前線であった。)

 そこでドイツの再軍備化・復興がなされていくのだが、これに異を唱えたのはフランスとイギリスである。上述したように戦争を引き起こしたドイツに対しての不信感はぬぐい切れないままであった。一方で単独でソ連率いる東側には対抗できないことから結局はアメリカの意向に屈する形となる。ドイツはその過程で様々な監視がなされた。NATOは東側陣営に対抗する意味合いよりも当初は強大なドイツを監視する意味合いの方が強かった。EUの前身であるECCも戦争に必要とされる鉄鋼資源の共同管理が背後にはあった。

 ここまで長々と常識的な東西冷戦の夜明けについて端的に記述したが、ここで重要なのは根深く残る対独不信である。徹底的なドイツ経済破壊から再軍備への反対、ECCやNATO設立など徐々にトーンを下げていくもののドイツに対する不信感は常について回った。この状態でドイツの戦後反省が生半可なものであった場合どうなるだろうか。少しでもそれを怠ればドイツに対する不信は増加したであろう。これはドイツにとって死活問題であり、信用を損なえば徹底的な収奪が行われるばかりか目の前の巨大な東側陣営にも付け入る隙を与えることになる。ドイツは真摯で深い戦後反省が外的要因を出発点として求められていたのである。(だからドイツの反省は不誠実という文脈ではない。)

1‐3戦後日本、動機の不在、強制者の不在 

 ここまでドイツの戦後と戦後反省への動機について述べてきたが、ここでは比較として日本の戦後なぜ戦後反省への動機が存在しなかったかをドイツとの差異に着目して述べる。

 日本もドイツのような徹底的な脱工業化・食糧難といった点は日本も例外ではなく行われた。しかし、両者の間には二つの相違があった。朝鮮戦争と国共内戦である。朝鮮戦争は早期の日本の工業・経済復興を促し、国共内戦によって日本の戦争責任を問う発言者たる中華民国はそれどころではなくなってしまった。極東アジアは早期に冷戦どころか戦争状態へと回帰し、日本は早期にアメリカ陣営へと組み込まれたのである。この状態は明確にドイツと異なる。日本の戦争被害にあった隣国は朝鮮(あえて朝鮮と表記)と中国だ。彼らは本来であれば日本の戦争被害者として日本に対して戦争反省を求める外的要因となる「はず」だった。しかしながら中華民国は国共内戦を経て中華人民共和国となり、朝鮮は朝鮮戦争を経て北は朝鮮民主主義人民共和国になった。日本の生きる西側とは異なる東側世界へ行った両国を日本はドイツほど顧みる必要性が無くなったのである。唯一残った南の大韓民国は日本に対する戦後反省を促す存在としては、微弱であった。経済的に困窮しており、むしろ日本に対してある種劣勢にあったといってよい。加害のドイツと被害の英仏の力関係とはちょうど逆転する。加えてアメリカはヨーロッパよりも西側が劣勢にある極東アジアの日本と韓国が戦後責任について対立することを好まなかった。

 このような情勢下で日韓は国交回復のために日韓基本条約を締結するのだが、この交渉にはなんと15年間と長期化している。背景には日本と韓国の歴史問題認識など戦争にかかわる認識の差が根深く存在した。顕著な例としては、第三次交渉におけるいわゆる久保田発言と呼ばれる当時の日本側代表による「結果的にインフラ投資等で韓国生活水準向上に貢献した」という韓国併合を肯定する発言だ。これに韓国は激怒し交渉は一時決裂するなどしている。このような状態を改善する必要性は日本にはなかった。いや、道義的には存在するがそれだけで世論や国家は動かない。道義だけではなく必要性を伴わなければ物事は動きずらい。ここが日本とドイツの差、外圧的な要因に関するといってよいだろう。

最後に

 ここまでドイツと日本の戦後プロセスの一端について記述してきた。これは単純にドイツの戦後反省プロセスが日本にあてがうことができないという事と日本の戦後反省を考える上で「なぜ」日本は戦後反省を怠ったかという点についてを考える上で重要である。冷戦は去り、中国も日本の隣人として東側の恐怖の巨人ではない。米国や独裁政権によって押さえつけられてきた韓国も民主化後に日本に対して戦後反省について問題を投げかけてきている。ドイツが歩んだ60年前とはまた異なるものの日本は外的に戦後反省を問いかけられている。我々日本人はこれを契機に果たして日本が大戦によって行ったことは一体どのようなことだったか真摯に向き合うべきだ。現在日本において加害の歴史を学ぶ博物館、資料館、教育何もかもがない。
保守は日本の戦争責任に真摯に向き合うべきである。
リベラルはなぜ日本は戦争責任に向き合えなかったかに注視するべきである。

 

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