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戻りたいと思ってしまうのはなぜだろうか

卒論の時点で苦しくなって逃げ出した研究者の世界に、なぜいつまでも未練がましく憧れてしまうのだろうか。

バンド・デシネ『博論日記』に描かれている世界は研究室でみた先輩たちの姿そのもので、その過酷さはそれなりに理解している。

それでもジャンヌの葛藤を見て憧れを少なからず抱いてしまうのは苦しいなぁと思った。その苦しさと愛と『博論日記』について思ったところを言葉にしていこうと思う。

1. 当たり前化した理不尽と非効率

ジャンヌや他の学生たちを取り巻く理不尽と非効率のごった煮。それは私が学生時代に見聞したものと変わりなくて、後ろ盾なくこんな世界に行くくらいなら社会人やるわって決めた当時の自分は間違ってなかったなと思ってしまった。

学位と自分の研究のためにこんなにいろんなもの消費させてくのって、どこの古典的集団でもそうだろうけど、なんで許されてるのだろうか。というか欲しがる側がそれを変革させることなく鵜呑みにしているから断ち切られないんだよな、この問題。苦学生は苦学生のまま摩耗し、パトロンもとい親族のスネを齧れてかつ優秀な人だけ残ってくシステム。

日本の教授・講師たちの雑用量が頭おかしいとは思ってたけど、海外だってそんなにマシではないんだなってのがよくわかった。

2. メンヘラなんとかならんのか

そもそも、研究者って会社員やれないような社会不適合の職業って思われがちだけど、むしろ社会を変革させてくくらいキレッキレの人じゃないとやってけない。成果物に対しての責任、時給400円以上なら良い方って言われるようなマルチタスクと低賃金、研究の世界で人脈作りやを共同作業をゴリゴリやってけるコミュニケーション能力とか。

その中でも特に、それらをこなせるだけの精神強度について考えさせられた。研究対象に精神汚染されるリスクはもちろんあるけど、ジャンヌやモブキャラたちがその弱さを恋人や教授にぶつけにいく感じに終始気持ち悪さというか違和感というか。

だって、教授たちって「専門分野のプロ」だし、同棲相手は共同生活者だけどカウンセリングのプロではないし、自分のメンヘラを話したところで何になるんだ?対岸の火事だからそんなこと思えるだけなのか?

カウンセリングやコーチングのプロに依頼する時間も金もないのはわかるけど、ミットすらつけてない素人に150キロ全力投球したって受けてくれるわけない。絶対にキャッチ失敗されたら自分が傷つくボールをキャッチできない人に託すのって、逆に自分の傷口広げる気がした。

3. 教授側・事務側の心理描写しんどい

『博論日記』で1番傷ついたところ。内心こういうこと考えてるんだろうなってわかってはいるけどキツい。フィクションとはいえ精神的にくるものがあった。

前項と言いたいことはほぼ同じで、彼らだって人だからそりゃそう思うよな。自分のこと特別だと思っている普通の人をわんさか見て、全員似たような落ち方してったらそりゃ全員を助けてあげられないよね。

4. 《勝手にふるえてろ》との比較

研究者のメンヘラ問題から発展させた項目。『博論日記』の中身のあるあるに対して抱くなんとも言えない感情は、映画《勝手にふるえてろ》が「ラブコメ」になんてできなくて今でもカルト宗教が如く囚われてる気持ちに似ている。

戻れないもの・手に入らなかったものへの執着。執着したものをやっぱり手に入れたくなる悪あがき。今手に入るものじゃ満足出来ないけど、執着しても幸せになれないからそれで幸せになろうとする気持ち。私が『博論日記』で思い出した研究職への執着は、《勝手にふるえてろ》でヨシカがイチに対して抱いた感情そのものだ。あぁ苦しい。対象が違うだけでどちらも「好きだから苦しい」に帰結している。

ビジネス界隈でも「好きを仕事に、ってどうなの?」問題あるじゃないですか。「仕事」を課題、タスク、宿命等々のワードに置き換えると汎用性がグッと上がるこの問題。結局置き換えたところで「答えは多様、だからどれを信じるかは各々の覚悟次第。」に帰結するんだよなぁ。

私が決められない悩みに直面した時、だいたい《勝手にふるえてろ》か《ミッドナイト・ゴスペル》に例えがちだから、同じ理由でこの項発生させといた。

5. こんだけ言っててそれでも戻りたがるのか

院進するかどうかの迷いは平成に置いてくぞ!って思ってたのに、私は『博論日記』を読んでその怨念を令和へ持ってきてしまった。

学士論文だけでホームの黄線外側に吸い込まれかけた人間だけど、博士論文通した人になりたかった。尊敬している・憧れるなって思うのは気付けはだいたい博士号保持者。(『文化人類学の思考法』の序論とか『キュビスム芸術史』のアナクロニスム配慮に泣いた話とかはあまりに脱線するから割愛)

博士論文残せてるから好きってわけじゃない。博士号を持てる人の思考回路、中庸やアナクロニスムに対する意識、悟り開いてるんじゃないかってくらいの意識と研究を成し遂げようとする強欲さが同居してるその姿が好き。というかどんな職業・宿命を背負ったとしてもそんな人間になりたいんだろうな。

こんだけ研究者界隈について俯瞰的に思うところがあったとしても、明日には我が身になりかねないくらい戻りたがっているのは我ながら笑っちゃう。過去の執着が記憶補正でモンタージュして自分を縛ってる。

そんな自縛っぷりを改めて思い出させてくれた『博論日記』、本当にありがとう。令和どころか死ぬまでこの戻りたい気持ちは続きそうだけど、もうちょっとその気持ちと向き合ってくよ。


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