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芸術の鑑賞者(消費者)問題

美術史版サーキットイベントみたいなオンラインフェスティバルにウェビナー参加した。

ラウンドテーブル「浮遊する世代:平成の日本の美術(1989年ー2019年)」で、元研究対象~自分がものごころつく前の美術って全然追えてないなー、すでになんとなく知ってはいるけど前の京セラの展覧会図録取り寄せようかなーとか思ってたら突然表題の問題提起が出てきてびっくりした。

芸術の安易な商業利用

表題の問題提起が出る前に紹介されたのは、DISCOVER JAPAN広告問題だった。DISCOVER JAPAN とは、日本国有鉄道(国鉄)が個人旅行客の増大を目的に1970年から始めたキャンペーンのことである。

リンク先の連載に記述があるように、もともとあった「アレ・ブレ・ボケ」の表現方法は、このDISCOVER JAPANで勝手に商業利用されている。

これが「当時は今ほど著作権問題厳しくなかったんでしょ?」ですめばいいのだけれど、現在進行形で同様の問題が起きているので笑い事ではない。

DISCOVER JAPANで消費が促進されたからと言って、商業利用された芸術までも消費対象・消耗品扱いされるのは別問題、というか許せない。

消費される美術館

芸術消費問題は美術館・博物館のような研究施設も飲み込んでいる。芸術=稼げるものみたいな利用の仕方は、作品海外輸送や人の移動がためらわれるこのご時世にかこつけてなくしていってほしい。

例えば美術手帖のリンク記事内で引用されたフェルメール展、概要見るとわかるように新聞・テレビ局・広告代理店が名を連ねている。

海外渡航せずに作品を観られるのはありがたいけど、これって「有名な○○とコラボした期間限定新作です!」って言ってるのと同じで金儲け!エンタメ!って感じがしんどい。

こういうブロックバスター展のことを友人間で「商業臭がキツイ」ねなんてぼやいているものの、お金なくしてできないこともいっぱいあるから、各館の担当学芸員各位は本当にすごいと思う。頭があがらない。

メディア系との手切れってもう無理かと思いきや、愛知県美術館が主催を施設のみにするっていうめちゃくちゃかっこいいことしてくれたので未来は明るいかもしれない。
いつもこういうかっこいいことをやってのけてくれる愛知県美術館、推せる。

まずは消費者の意識を

前項でそらしてしまった話を戻そう。この鑑賞者(消費者)問題、自分も定期的に怒っているんだけど、自明すぎるのに根深い厄介案件だから困る。

DISCOVER JAPANのようなアウト企画だしたところを有識者が半永久的にモグラたたきしてくしかないんだろうけど、それじゃ根本解決にならない。だからこそ、でてくるのが鑑賞者(消費者)問題だ。

理論としては、転売ヤーを駆逐するには消費者の行動意識を変えるのとほぼ同じだ。

芸術家の権利を侵害する商業利用発生

制作費的に黙って利用した
芸術家の許諾を得られなかった
盗用は芸術家や消費者にバレないという謎自信

企画側は「バズる」と思って企画した

だから上記問題を解決するには

①企業が芸術をリスペクトする姿勢が当たり前になる
②消費者各位がアウトな案件に手を出さない

から始めるしかなくて、会社動かすよりは個人の意識をアップデートしたほうがいいよねって流れで芸術の鑑賞者(消費者)問題が出てくるのだと思う。

「よかったのか悪かったのかについての判断を、近代の聴衆は有力者/ジャーナリズムに委ねた。だが黙って聴いているだけの聴衆ほど与しやすいものはない。」岡田暁生『音楽の聴き方』 p.173

追いかけても追いきれないほどの芸術界に人生全振りなんて一部の人間にしかできないのだから、芸術分野の各所を分業化することには賛成だ。

とはいえ、研究、教育、保存等々、何世代にわたって続いていくものをワンシーズン売り切り品と同じ扱いをしないという意識を鑑賞者は持つべきではないだろうか。

文脈なき芸術鑑賞

前述の鑑賞者意識の問題に関連する話。の番組の中で、今の世代はdigらない、文脈で音楽を聴いていない、という話が出てきた。

確かに勝手に各種サービスが気に入りそうなコンテンツ・商品をお勧めしてくれる画面が当たり前になりつつある。個人的には、SNSがなかったらフラメンコやスペインの音楽に興味を持っていなかったと思う。

とはいえ、「文脈を気にせず芸術を楽しめること」と「文脈を知らずに芸術を楽しむこと」は区別が必要である。

例えば、THE NOBEMBERS が突然NEO TOKYO(I. TOKYO / II. 金田)を演奏したとき、AKIRAの文脈を知らなかったら「なんだこの宗教儀式は」ってびっくりしたと思う。そんな感じで「推しの推し」を理解することで楽しいことが増えると思うし芸術をより楽しめると思う。

あと、先日の弊noteなんて事前情報ないとしんどいものの極みだった。digること、当時の視点や価値観をインプットして始めて見える景色は、今・ここのエモだけ重ねていたら知らずに終わったものだろう。

とはいえ、すべてにおいて原理主義や文脈重視したら疲れちゃうと思うので、作品・作者へのリスペクトを保てるのであればdig深度は対象ごとに使いわけていいんじゃないかな、などと。(ご長寿バンド聴くためにバブル期の流行や武勇伝に興味もてってZ世代以降にとってはマジで地獄だし)

鑑賞者(消費者)問題解決のためにまずできること

環境問題やほかの制度問題同様に、「好きでもないシステム構築内側に入って戦争する」は最善じゃないと思ってる。だって今からどこかの機関に属して世代交代を待つ臥薪嘗胆スタイルって、年功序列が維持されるかわかんないご時世にやってもねぇ、って感じですので。

あくまで自分の人生を楽しみながら「鑑賞者として何ができるか」って考えると、

①「これ前に見た○○のパクリじゃん」と思ったらその対象とのかかわりに気を付ける 
②気になったものがなぜ気になるのか考えてみる 
③興味を持ったら飽きるまでdig 
④声の大きい人の意見をうのみにしない

っていう普段通りの生活をするしかないのでは?っていう全く革新的じゃない提案。芸術に大事なことは生活でも仕事でも大事だから、まあそうなっちゃうのかな、という気がする。

ちょっとした積み重ねで下手したら自分が死ぬまでにこの問題は解決しないかもしれないけど、少しでも世界がよくなる瞬間を見られるのが楽しみだな。

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