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佐藤の「普通」とかおりの「普通」

映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』では、原作よりも「普通」というワードが強めに出ている気がします。

私は以前話題になった映画『花束みたいな恋をした』で「麦と絹は「好きな物の名称ビンゴ」が成立してただけで価値観の違う2人だった」と思っている派なので、『ボクたちはみんな大人になれなかった』における佐藤(=ボク)とかおりの「普通」に対する価値観にも注目してみました。

【仮説】「普通」への価値観の違いが関係解消に繋がった

佐藤とかおりの2人は「普通」に対して思うところがあるわりに、普通の定義が違っていて、それが突然(に見える)関係終了を決定づけたのではないでしょうか。

佐藤にとっての「普通」は、社会のヒエラルキーの上位に居られないことだと思います。しかも佐藤にとっての社会は、サブカル界といわゆるホモソーシャルがごっちゃになってる可能性が高いです。

でも、自分よりも個性的で魅力あふれたかおりが彼女になる(=彼女持ちの男になる)サブカル界のヒエラルキーでもホモソーシャルのヒエラルキーでも上昇できてしまうため、その辺りの切り分けができていなくても問題なかったと思われます。

一方、かおりにとっての「普通」はヒエラルキーを含めたいわゆる「当たり前」に迎合することだったと思われます。後述しますが、自分以外の価値尺を鵜呑みにすることを「普通(=つまらないもの)」としていました。

ゆえに、この佐藤の「普通」とかおりの「普通」は単語が同じでも意味の違いがどうしようもなくて、その積み重ねが突然の関係解消に繋がったのではないかと考えます。

ミューズに仕立て上げられる地獄

有名な画家について語る時に、「画家〇〇の作品モデル△△は、〇〇にとってのミューズだった」みたいなフレーズをよく見かけます。

大体の場合は〇〇は男性、△△は女性で、ミューズという語はいわゆる「あげまん」をお上品に言っただけみたいなところがあります。

このミューズという表現は、佐藤とかおりの関係にも使えるのではないでしょうか。佐藤は「(佐藤にとっての)普通」すなわち社会に埋没することに対するコンプレックスがあって、自分軸で物事を選び取るかおりを理想の存在としていました。

この「他者をミューズにする」という行為って、された側はしんどかったんじゃないかなって思います。人がミューズにされる時、人はその人そのものとして扱われなくなるからです。

誰かが誰かをミューズにする時、ミューズにした人はされた人を「推し、またはコンプレックス等に悩んでる自分を上げてくれる存在」として見ているので、された人そのものにピントを合わせず、その向こうにある自分の理想を見ます。

ミューズにした人はされた人とどうにかなりたいんじゃなくて、ミューズによってコンプレックスを解決したいだけなのです。

コンプレックスを解決する対象として見られることが平気な人やそもそも気づいていない人はそれなりにいると思いますが、気づいていて平気じゃない人にとってはミューズに仕立て上げられるという行為は地獄でしかありません。

かおりが嫌った「普通」

いつものラブホテルでの最後の日、同棲を提案する佐藤に対し、かおりは「いや…なんか…ほんと普通だなーと思って」と返します。

かおりが難色を示したのって、いわゆるライフイベント鉄板ルート(同棲→結婚→子育て)に迎合することに対してではなく、かおりとの関係における最適解を考えず、とりあえず鉄板ルートに乗っておこうとする佐藤の姿勢に対してではないのでしょうか。

佐藤にとっての「同棲したい人」「いずれ籍を入れたい人」って、本当はかおりじゃなくてもよかったんだと思います。

たまたま佐藤を「誰かと同棲できる男」や「もうじき結婚する男」にできる存在が当時の彼女=かおりだっただけで、「かおりと同棲したい」はその本音に被せられた覆いでしかなかったし、佐藤はそれを自覚していないはずです。

だから1999年のかおりが嫌った「普通」は2020年のかおりのFacebookに散りばめられた「普通(=ライフイベント鉄板ルートを通ること)」とイコールではなく、「(佐藤がライフイベント鉄板ルートにのるために用意された)普通」だったのではないでしょうか。

誤認された「普通」の被害者

前述のかおりが嫌う「普通」に気づけなかった佐藤は、「かおりの嫌う普通=ライブイベント鉄板ルートにのること」と思ったまま、恵という被害者を生み出します。

かおりへの未練と「かおりが嫌いなもの(と勘違いしたもの)を嫌いでいること」にとらわれたままの佐藤は「普通だから」と言って恵との結婚を先送りにし続けました。

他の女の影響下に居続ける佐藤がいつまでも変わってくれないなんて、恵にとってはたまったもんじゃありません。きっと恵は「いつか変わってくれる」と過度に期待して、いわゆる結婚適齢期を消費したのでしょう。

原作にはなかった恵の存在、いらないって言う人もいるけれど、大人になれなかった佐藤や「普通」を誤認した佐藤を示すために大事な人だと思います。

佐藤は本当に「普通」だった?

映画では、佐藤がかおりからもらった「君は大丈夫だよ。おもしろいもん。」は、佐藤の「俺には何にもないよ(だから小説は書けない)」に対してかおりがかけた言葉でした。

少なくともかおりにとって、文通コーナーでかおり(犬キャラ)を見つけ出した佐藤は佐藤自身が思ってるほど「(佐藤の言う)普通」ではありませんでした。

逆に佐藤がなりたいと思っていたヒエラルキー上位のテンプレート人間こそ、かおりにとっては嫌な「普通」だったのです。

だから社会に迎合しようとしてポール・スミスを着る佐藤に「なにそのシャツ」と言い、急に仕事を休めないという佐藤に「ほんと普通だね」と言い、とりあえず海外行ったら人生変わりそうって考える佐藤に宮沢賢治の話をして、とどめが同棲提案に対しての「いや…なんか…ほんと普通だなーと思って」という言葉だったのではないでしょうか。

答えあわせはしなくたっていい

2020年の佐藤が七瀬に「会えてよかった」というシーンがあります。

ここでは「会えてよかった」が本音なのか建前なのかはきっとどちらでもよくて、「会えてよかった」と佐藤が言う行為自体が大切でした。

同じように2020年においては、というか恋人関係が終了した後では佐藤とかおりの「普通」の答えあわせはいらないと思います。

大事なのは互いがそれぞれの「普通」に縛られないことで、だから大人になった佐藤がラフォーレでかおりとの初対面を思い出して「ほんと普通だわ」って言えたのはよかったです。

「普通」という言葉が刺さって抜けない私たち

私は佐藤とかおりの「普通」に対して上記のように考えましたが、きっと鑑賞者それぞれに刺さって抜けない「普通」があって、それらが作中の「普通」によって大変なことになっちゃったのではないでしょうか。

映画ラストで書き換えられたタイトルと同じように、ここでも多様な意見があるだろうから、それぞれの「普通」の話がしたいなって思いました。

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