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選ばないことを選んだので、

元日。1日だから映画館のファーストデー。
会員費払うよりも安い日=映画の日って縛ったほうが
「映画館行く行く詐欺」を防げる事に気づいたので
年始だろうと今日も1時間かけて映画館へ。

どこも休みでディストピアじみた街に繰り出して、
『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を鑑賞。
すずに向かって義姉の言う、義姉は自分で選んで不幸にあった人、すずは流されて不幸になった人(意訳)って解釈に対して脳に言葉が降って来た。

「失うことって選ばないことを選んだ結果では?」

私には、人生において勝手に背負ってる言葉がいくつかあって、そのうちの1つが「壊れながら失いながら僕らは加速してつき進む」。すなわち、大事な言葉と降って来た言葉が真逆なわけでして。

これっていわゆる「鶏が先か、卵が先か?」問題に近いような気がする。不幸と選択どっちが先か的な。
不幸が選択肢を狭めて可能性を潰してるとも取れるし、ババ抜きみたく選択した結果が不幸ルートだっただけとも取れるし。

すずみたく流れに乗って人生を選んでいくことって、
当時のいわゆる当たり前とはいえ、義姉のように自分で道を選ぶこともできた中での選択なんですよね。
現代でいうところの高校→大学→集団就活して30前後で結婚を選ぶみたいな。

それを思うと「自分で決めないこと」「選ばないこと」も自分の選択には変わりなくて。
壊れることも失うことも自分の選択の積み重ねで、その積み重ねに何を乗せて突き進んでいくか・何を選ばないかも自分の選択で。もちろん選ばず先延ばしを繰り返すことも自分の選択と責任になるし。

だから、自分がつき進んでることもそのために選ばなかったものも自己責任。失ったものを愛でるのは去年まででおしまい。
「壊れながら失いながら僕らは加速してつき進む」のは、これまでは選べなかったものへの弔いだったけれど、これからは選んだ自分を信じる言葉にしよう。
以上、映画から引っ張り出された新年の抱負です。


※ 「壊れながら失いながら僕らは加速してつき進む」はPlastic Tree のメランコリックの歌詞から抽出しています

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