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続・佐藤の「普通」とかおりの「普通」

前回のnoteで「普通」について書いた後、肝心なことの抜け落ちに気づいてしまいました。

原作は初回版を買って読んでいたはずなのに、なんで今まで見落としていたのでしょう。

佐藤がかおりの「普通」を観測したのって、偶然の対面でもなく、Twitterでもなく、Facebookのみだということに。

夜の街とSNS

作品に登場する夜の街(ゴールデン街)もSNS(Facebook)も虚構の自分を楽しむ世界という点で共通しています。

夜の街では元サッカー部のベンチウォーマーが元Jリーガーを名乗ることができるし、SNSではこの作品と対になってると言われる同時期公開映画『ずっと独身でいるつもり?』に出てくるように画面の中で盛れた自分になることができます。

そして、SNSは使う種類によって表現が必ずしも一致するとは限りません。例えば私はこのnoteにTwitterを紐づけているけれど、この2つが醸し出す印象が同じだとは思っていないし、Instagramや Facebookでnoteに書くような文章をアップはしていません。

なので、社会性マシマシで表現されるのが特徴のFacebookで見つけたかおりを「普通」だと判断するのはなんだか違うと思うのです。

閉じこもった佐藤

前述のことを考えると、恵が佐藤に対して言う「ずっとそこに閉じこもってれば?」がじわじわと効いてきます。

大人になった佐藤がかおりを見つけたのはFacebookです。本名で過去の人を見つけられるという点でFacebookが出てきたとは思うけれど、FacebookだってSNSの1つです。

佐藤は同世代(おそらく)のかおりがFacebookで社会性演出ができないと思っているのでしょうか。それとも、かおりが90年代後半時点でキャラクターの使い分けができなかったと思っていたのでしょうか。

前回佐藤がかおりをミューズ化してるって思ったとおり、佐藤は90年代のかおりを過度に理想化していて、「理想化したかおりが好きでいてくれたであろう自分」にずっととらわれてたというか、閉じこもっていたんだろうなって思います。

また、大人になった佐藤のラストシーンを見る限り、大人になっても「理想化したかおりをずっと引きずってる」ってことを自覚してないような気がするのですが、「出会いのシーンを回想して「普通」と言う佐藤の気持ち」はまだ咀嚼できていないので要検討課題とします。

映画に出てこなかったのは何故だろう

映画館で観て以降わりと映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』に肯定的な私ですが、原作のここ残してほしかった、と思うところがあります。

それは、佐藤のFacebookアカウントをフォローバックしたかおりが佐藤の投稿に「ひどいね」スタンプを押していくところです。

そのシーンでは、かおりがいわゆるホモソーシャルヒエラルキーの上の方っぽさを出している佐藤の投稿に1つずつ「ひどいね」をつけていきます。でも、佐藤が夢を実現した時の投稿1つにだけ「いいね」を押すのです。

この「ひどいね」と「いいね」の判断基準って、90年代にかおりがジャッジしていた「普通」と「キテる(面白い)」と同じもので、すごく素敵なシーンだと思いました。

なぜなら、この1つの「いいね」って「君は大丈夫だよ。おもしろいもん。」(原作だと「キミは大丈夫だよ、おもしろいもん」)を今でも言ってあげてるみたいだからです。

ここって佐藤の職業設定が原作と違ってたとしても、「ひどいね」がつく投稿と「いいね」がつく投稿の基準をそのままにすれば残せる部分だったんじゃないでしょうか。

映画版のラストも嫌いじゃないけど、ここは残してほしかったと個人的には思っています。

世界は自分を中心にまわってる

この文章でも前回文章でも、佐藤がしがみついてる90年代のかおりは虚像だと私はみなしています。つまり、佐藤が20年近く誤解したままで、これからもその誤解と生きていくって考えているということです。

でも別にその誤解は悪いことだと思っていません。自分の身体は1つで、世界を認識できるのは自分だけだからです。

例えば、この映画だって面白いと思う人がいれば許せないと思う人もいて、それぞれの理由は作り手の管轄外です。

鑑賞者それぞれに多様なバックグラウンドがあって、鑑賞する自分や環境にもその時のコンディションがあって、それらの総合結果が作品の感想となり作品とのつき合い方も人それぞれになっていきます。

なので、佐藤の世界におけるかおりは佐藤にとっての「普通」を嫌い、2020年代には佐藤にとっての「普通」そのものになっている、ということが真実となるのです。

世界は自分という受容体を中心に回すしかないし、その世界で幸せになれればそれでいいと思います。

「普通」でここまで語れるとは

まさか映画の中の「普通」でnote2本書くとは思ってなかったので、ここまで書いておいて我ながらびっくりしています。

そして、この「普通」解釈はわたしの世界での最適解なので、他の人にとってはまた違う解が人ごとにあるんだろうなと思うとかなり面白いです。

だから誰かの《ボクたちはみんな大人になれなかった》における「普通」の話、聞いてみたいなって思いました。

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