ショートショート『勇気渡し』
「ココちゃん、逃げよう!」
そう言って悠斗が家を飛び出したから、心音は急いで後を追った。おかあさんに叱られないか心配だったけど、ふたつ年下でまだ小学1年生の悠斗をひとりにするわけにはいかない。裸足でスリッパを履き、できるだけ早足で歩く。最初の角を曲がったところで追いついた。狭い路地に佇む悠斗が、不思議そうにこちらを見上げる。
「どうしてそれ持って来たの?」
心音の手にはカップラーメン。お湯を入れたばかりのもので、ご丁寧に蓋の上にはフォークまである。手のひらより、顔が熱くなる。悠斗は「しょうがないなぁ」と言わんばかりに頬をポリポリ掻くと、ぷいっと前を向き、歩き始めた。とりあえず、ついて行くしかない。
「ねぇ、どこに行くの?」
悠斗は歩きながら、振り返ることなく、答えた。
「船に乗る。乗れるところ、見つけたんだ。一緒に帰ろう」
堂々とした言葉に、次はちょっとだけ胸のあたりが熱くなった。どうなるか、心音は悠斗に委ねてみたくなった。
「わかったよ。船、乗ろう」
1分足らずで船着き場に到着。ちょうど出航するところだった。乗客は他にいない。運転するおじさんは呑気で、こちらを気にも留めていない様子だ。船が動き始めると、悠斗は小さくガッツポーズをした。けれど、それとは裏腹に、表情は冴えず、少し息が荒い。とんでもないことをしでかしてしまったような、興奮と少しの畏怖を心音は感じ取った。
「臭い」
悠斗がつぶやいた。悠斗が今も暮らす街には、近くに港なんてない。心音は知っている。だって、つい最近まで心音もその街で暮らしていたから。心音は、おとうさんの仕事の都合でこの町にやって来た。
「ココちゃん、これでまたいっぱい遊べるね」
今度は胸が痛くなった。たぶん、わたしのせいだ。昨日の夜、みんなで晩御飯を食べながら、この町のことをからかった。港が臭い。コンビニが遠い。虫が多くてイヤになる。年寄りばっかり。
おとうさんやおかあさん、それにおじさんとおばさんも笑ってくれたから、つい調子づいてしまった。突然、悠斗の機嫌が悪くなって「この子、注目されないと、すぐ拗ねるから」とおばさんが困っていたけど、そうじゃなかったんだ。
「もう大丈夫だから。帰れるから」
そう何度も心音に言う悠斗だったが、まるで自分に言い聞かせているようだった。
「ココちゃん、帰ったら何しようか?」
悠斗は精一杯笑いながら、心音の顔を下から覗きこんできた。頬が引きつっている。心配させまいと気を使ってくれているのかもしれない。心音は、ちょっとした出来心を悔いた。
「そうだね……駅前のカフェでパンケーキを食べたいかな」
「あれ、おいしいもんね!」
悠斗の輝き出した目を、もう心音は直視できなくなっていた。低いエンジン音を響かせながら進む船。夏の後を引く生温かい風が、居心地の悪さを助長する。鉛色の空も濁った海も、本当は続いているはずなのに、世界は狭そうで広い。
「ぼく、ココちゃんと遊ぶの大好きなんだ」
「わたしもだよ」。そう言いたかったのに、声にできない。
「パンケーキを食べて、マンションの下の公園で遊んで、ゲームもしてさ。映画も見に行こうよ。それから、うちのパパとママ、おじさんやおばさんも一緒にカラオケにも行こう。ぼく、上手に歌えるようになったんだよ。それからさ……」
不安をかき消すかのように勢いに任せて喋っていた悠斗だったが、異変を察知して凍りついた。船は次第に、着実に速度を下げている。そして、そのままゆっくりと着岸した。
「ユウトくん、降りよっか」
悠斗は座り込んで動かない。
「ココちゃん、知ってたの?」
丸く見開いた悠斗の目からは、今にも涙がこぼれそうだった。
「とりあえず降りよう」
心音が促して、ようやく重い腰を上げた。
「これ、食べていいかな」
コンクリートの堤防に並んで腰かけ心音が聞くと、悠斗は黙って頷いた。蓋を開けると、麺がスープを吸ってのびていた。フォークですすると、味はいつもと変わらない。
「カップラーメンを待つ時間にこんなにもワクワクしたこと、今まで無かったよ。本物の冒険みたいだった」
慰めるつもりだった。でも、悠斗は一言も発しない。リゾート地の透き通ったエメラルドグリーンの海とは似ても似つかない、太陽が鈍く照らす深緑色した水面を、ただ睨みつけていた。
反対側の船着き場が、無情にもはっきりと見えている。ラーメンを食べる心音。無言で海を見つめる悠斗。鳥の鳴き声がこだまする中、麺をすする音が心音には異様に大きく聞こえた。
プップー。
クラクションに目をやると、すぐ後ろにおかあさんの車が停まっていた。
「あなたたち、いきなり家から出て行って、こんなところで何やってるの?悠斗、おとうさんとおかあさん、用事を終えて戻って来てるわよ。そろそろ帰る支度しないと」
船から降りるときとは違い、悠斗は自力で立ち上がってそそくさと車に向かった。置いて行かれたことが心音は何だか寂しい。
「心音、あなたも早く乗りなさい。おじさんたち、待ってるんだから」
その日のうちに悠斗たちは帰って行った。
「ごめんね、ユウトくん」
心音は、部屋でひとり泣いた。この町に引っ越してきてから、初めて泣いた。
プップー。
気心知れた郵便配達のおじさんは、投函と同時に合図をくれる。心音がキッチンで立ったままカップラーメンを食べていると、おかあさんが一通の封筒を差し出した。
「悠斗から。結婚するんだって」
心音は、むせた。もう30を過ぎているのだから、結婚してもおかしくない。けれど、年下の身内というのは、いつまでも子どものままでいるような錯覚が起きてしまうものだ。長い間会っていないと、余計にそうなる。
「あんた、どこ行くの?」
「ちょっとね」
心音はスリッパを履いて外に出た。路地を歩き、船着き場へ。あの日のように船が着いていて、心音は乗り込んだ。いつもはすっかり忘れてしまっている、たった3分ほどの短い船旅を思い出す。
この木の船に乗って可愛い姫を救い出そうとした。沈没することも全く怖れないで。小さな頃から、そんな強い勇気を持っていた悠斗だ。きっと素敵な男になったのだろう。心音は誇らしい気持ちになった。
船を降り、堤防に座る。家から持って来た食べかけのカップラーメンをすすった。当然だが、のびてしまっている。それでもおいしくて、靄が晴れていくように清々しい。
ユウトくん、わたしはこの町が大好きだよ。
今なら胸を張ってそう言える。
わたしは、やっぱりこの町で幸せになりたい。
fin.
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