ショートショート『凪の凧』
地面をずるずると引っ張られているのは凧だった。
リビングで寛いでいると呆れ顔の妻がひとり帰って来て、すぐ近くにある公園に娘を迎えに行くように命じられた。「凧があがるまで帰らない」。駄々をこねているという。
つっかけを履いて外に出ると、空には雲ひとつない。冬のわりに暖かく、無風だった。歩いて数十秒の公園に向かうと、娘の凪(なぎ)が項垂れながらぐるぐると歩いていた。無抵抗な凧が一定の距離を保ちながら後に続く様子は、不機嫌な主人に気を遣っているように見えて、僕は思わず笑ってしまった。
「凪、帰ろうか。お母さんも心配してるよ」
「イヤ。あがるまでやる」
潤んだ瞳に宿る意地。凪は執着心が強く、それゆえ易々とは諦めない。何が何でも揚げないことには納得しないだろう。力づくでも止めさせようとしないのは、まだ小学校1年生の凪の精神性を買っているからに他ならない。
僕も幼い頃、凧を揚げることができなかったらしい。「らしい」というのは、後に伝聞したに過ぎないからだ。当時の記憶は全くない。両親によれば、思うように凧が揚がらず、拗ねていじけてしまったそうだ。
そんな自分と比べれば、イライラしながらもムキになってチャレンジし続ける娘の方がよほど立派だ。大人になって知ったことだが、自信を築くには成功体験を地道に積み上げていくしかない。僕はといえば、壁を避けることに一生懸命になりながら生きてきた。
娘の名前は、穏やかな人生を送ってほしいとの願いを込めて付けたものだ。この話を会食中にしたとき、ヨットが趣味の取引先からこう言われた。
「俺らにとって、凪はやっかいなものなんだけどね」
おそらく冗談だったのだろう。でも僕は、大きな間違いを犯してしまったのではないかと、ひどく動揺した。言葉には多様な意味が含まれている。捉え方次第のはずなのに。
「お父さん、持って」
凧を突きつけられ、僕は従った。糸がピンと張るところまで離れ、駆け出した凪を走って追いかける。およそのタイミングで凧を上空に向けて放すが、ふわっとしたのは一瞬で、ざざっと落下した。
「もういっかい」
「まだやるの?」
「うん」
「風が吹いてないから難しいんじゃないかな」
「もういっかい」
さっきと同じ要領で走り、祈りを込めて空に投げるように手を離した。でも、結果は同じ。凧は地面にある。
「もういっかい」
「そろそろ日が暮れるよ」
今にも涙がこぼれそうで、ほっぺを膨らませている。
「お嬢ちゃん、がんばってるなぁ!」
さっきまで誰もいなかったから、突然、大声をかけられた僕も凪もビクッとした。赤ら顔の中年の男。酔っ払っているのか、目の焦点が定まっていない。首からラジオをかけていて、聴いたことのない歌謡曲が流れている。
「おっちゃんが手伝ったろか?」
ふらふらしながら近づく男に対し、身体が硬直し、怯えているのがわかった。
「かわいいお嬢ちゃんやなぁ!」
凧に手を伸ばしたため制止しようとすると、バランスを崩したのか、男は足を絡ませて勢いよくこけた。
「行こう」
男は蹲って何か呻いている。僕は急いで糸をまとめ、凪の手を引いて立ち去った。
自宅に戻り、顛末を話すと妻が説教を始めた。
「お父さんの言うことを聞いて早く帰って来ればよかったでしょう」
口を尖らせた凪は、そのままソファでふて寝してしまった。
「明日、もういっかい一緒に凧揚げしような」
小さく頷いた娘の頭を、僕は何度も何度も撫でた。
fin.
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