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季節は巡る

桜が咲く 梅雨が明ける 髪が伸びる
時間とともに 人間も植物も1年経てば変わりゆくもの
それでも季節が巡ったと感じる瞬間?とかタイミングとか。
人によって 経験によって 思い出によって
きっとそれぞれなんだと思います

割と当たり前のような話をしている私ですが 
個人的な季節が巡った瞬間を記録します

我が家の太陽が沈む


祖母の逝去

ちょうど昨年の5月
病気で約一年寝たきりであった祖母が亡くなりました
祖母は病気が発覚してから一年 焦りとも取れるかのように体を弱くしていきました

眠った祖母に会いに 京都をあとにする

実家に帰る途中の出来事なのですが
電車でふと涙が止まらなくなってしまい 隣席の年の似た学生さんポケットティッシュを渡されたのを覚えています
優しい世界だなと

涙の理由 今なら

電車で流した涙 わけもなく流していたわけではないと思うんですけど
その時の私にはわかりませんでした

写真をしているわたしの捉えたかったものの一つ それは家族です

祖父

家族とは仲が悪いわけではないのですが
自分の家族に対する素直じゃない気持ちが 写真と家族の境界線を引いている
そんな時期はあった気がします

その境界線があったことに気づいたのもこれがきっかけで。
その境界線のせいで 祖母が亡くなる前に撮るべきだった祖母との記憶が
一つもなかったこと。
写真をしているうえで 初めて写真をしている資格がないと
心のどこかで思っていたけれど それに気づくのも怖くて
その後悔が涙になって出ていたのだと思います

『家族を撮る』
.
.

たしか祖母の逝去後ただただ自暴自棄になって 無心で中判カメラを買い
速攻で祖父の写真を撮りに行ったと思います
この日の話はまた別でしますが、、、

一つ言えることはこれ以降写真に対するモチベーションというか気持ちの変化があって 写真道折り返し地点だ!っていう認識になったと思います笑

祖母との別れの当日 初めて親族にカメラを向ける


朝 目が腫れてた
母も 目が腫れていた


わたしの小さな頃しか知らない親族もいたので 私がお葬式でカメラを持っていたことに少し驚かれてしまいました
その反応がやっぱりちょっと苦手で

この苦手を克服できたのは祖父の言葉でした

「こんな時しか集まらんのやから たくさん撮ってな!」

祖父は割とガッツリ写真をしていて 今でもたまに写真展に出すほどで
この言葉をかけられた時 祖父の血が私に流れていること
それが謎に自信となって 少しずつ抵抗がなくなっていきました


祖父が昔私たちを撮っていたように
わたしも撮るべきだ
祖父の血が流れている以上は 写真に対して素直な気持ちになろう

祖母にはもう会えません 写真も撮ることもできません
またもう一度会えるなら 全員揃って家族写真を撮りましょう
わたしの太陽のような存在で いなくなってからもちゃんと心に光を与えてくれる存在です

この日から一年 季節は巡る

このnoteのテーマでもある(すごく逸れてましたね)
”季節が巡る瞬間“

また再び祖母に

祖母の逝去の一回忌
それぞれの別の場所で日常を過ごしていた家族が 再び集まる日

皆さんの季節が巡ったなという瞬間はなんでしょう
私は間違いなく5月中旬に 親族でお墓参りに行く
途中の道の木々のソワソワした声を聞いた時ですね

その瞬間

自分の写真も変化して 家族も少しだけ変化していて
気温もなぜかことは暖かく感じて 祖母の事を想って集まるこんな日が
毎年待ち遠しいです 

祖母に会うたびに 季節を思い出す
そんな瞬間が 毎年訪れますように


これからも ずっとこの笑顔を記録したいですね

少し長くなってしまいましたが
ご一読していただきありがとうございます

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