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本当に満足できる「お金の使い方」の話をしよう

お金とは「稼ぐのはたいへんで、うまく使うのは難しい」もの


いつだったか、「お金は稼ぐよりも使う方が難しい」と教わったことがある。あるいは「真のお金持ちはお金の使い方が美しい」だったかもしれない。その両方だったかもわからない。とりあえずこの記事に関してはどちらでも大きな差はない。


いずれにせよ、お金の使い方には人間性というか、その人の本性が垣間見えるものだという説には、多くの人が納得するのではないだろうか。


たくさん稼いでも、その多くを高級ブランド品や投機(投資ではない)に注ぎ込んでしまい、結果として散財して一時的な成金にとどまる人もいる。派手なブランドのバッグを所持して高級車に乗りながらも、その態度や話し方がいかにも横柄で品があるとは言い難い方を見かけるたびに、「この人、いつか足元を掬われるんじゃないかな」と凡人の僕は僭越ながらも心配になってみたりすることがある。


一方で、10年で1000億円という信じられない契約を手にしながらも、チームの強化のためにとわずか3億円に満たない(期せずして凡人には理解し難い文章になってしまった)年俸を自ら提案し、野球の発展のために日本各地の小学校にグローブを寄贈した上、この度の自然災害の被災地に対して破格の1億円以上をあっさりと寄付してしまう聖人(正確には野球星人)のような人もいたりして、「いったいどんな教育を受けたらこんなお金の使い方ができるようになるんだ」と思わず唸らされたりもする。



一介の労働者にすぎない僕には、もちろんオオタニさんのようなお金の使い方もできなければ、それ以前にそんな大金を稼ぐ力すらない。オオタニさんでなくとも、自ら進んで慈善団体への寄付や支援を行っている人々の話を聞くにつけ、もしも自分にそれだけのお金があったとして同じことができるだろうか、と必要もない疑問を抱きつつ、やはりお金の使い方には人格が現れるものだなと痛感させられる。


もしもお金に「美しい使い方」があるのだとすれば、オオタニさんのように社会や見知らぬ人々のために躊躇いもなく私財を投げうつことを指すのだろうと思う。それを「売名行為」や「偽善者」と謗る人もいるけれど、そうやって根拠なく他人を非難する側に立っている限りは、その方は美しいお金の使い方とは無縁なままなのだろう。


話を戻そう。僕の実感では、「お金は稼ぐより使う方が難しい」という言葉には、半面の真理が含まれていると思う。半面、と言ったのは、稼ぐことだって決して簡単ではないからだ(そうですよね?そうですよね??)。


ただ、早くも19世紀にマルクスが労働者を「労働力を売って賃金を得る者」と定義した通り、言い換えれば多くの人間は「時間を売ってお金を稼ぐ」のである。


つまり、世の中には多種多様な職業が存在していて、人々はそれによって生計を立てているけれど、あえて全ての職業を一括りにして、要はお金を稼ぐ方法を一般化すれば「だれでも時間を売りさえすればお金は(ある程度まで)稼ぐことができる」と言えるのではないだろうか。


だから僕は「お金は稼ぐより使う方が難しい」という言葉をアップデートしてこう言いたい。「お金は稼ぐのはたいへんで、うまく使うのは難しい」と。


理想のお金の使い方


オオタニさんのようにとはいかないけれど、僕だって「美しいお金の使い方」をしたいという思いはある。だから僕は自分にひとつのルールを課していて、「(自分が決めた)ある特定の団体の募金活動を見かけたら100円の寄付をする」ことにしている。


いや、額面がしょぼすぎるやん。しかも僕が寄付をすると決めている団体はたった1つだけ。とてもではないけれど、オオタニさんやその他の方々と比較するのも烏滸がましいのは、重々承知している。僕だって本当なら一度に一億円とは言わないでもせめて1000円くらいはポンと出せたらいいなと思うし、できることならあらゆる活動団体を支援したいとは思うけれど、そんなことをしていたらあっという間にお財布の中身がすっからかんになってしまう。


そう、貧乏な僕は他者を救う前に自分の生計を立てなければならない。とても「美しいお金の使い方」にこだわっている場合ではないのだ。


……というのは半分言い訳で、結局は自分のためにお金を使いたいだけなのもよくわかっている。だからこそ、「1回につき100円ならできるやろがい」と自らに言い聞かせて、しょっぱい額面の金額を寄付するのである。


これは僕が拙い経験から導き出した持論だけど、「〇〇できたらやろう」と思っていることは、たとえ余裕ができても絶対にやらない。断言してもいい。


その時の状況や制約の中で、どうにか工夫を凝らして最低限できることをやろうとしない人間は、たとえ条件が整ったとしても絶対にやらないものだ。




つい先日、友人と人助けについて話をしていると、彼は「親切は上位者から下位者に向けてすること」だといった。たしかに「力がなければ人の役には立てない」のは正しい。それには同意するが、僕はある種の違和感を覚えた。


頭の悪い僕は、今頃になって違和感に対する答えに気がついた。「人間は力を持ったから人助けをするのでなく、だれかの役に立ちたいから力を求めるのだ」と。オオタニさんはお金持ちになったから人助けをするようになったのではなく、お金を持つ前からだれかのために動くことができる人間だったはずなのだ。


また話が逸れたので戻す。「美しいお金の使い方」についてはオオタニさんに託すとしても、凡人の僕だってやはりお金を使う以上は「せめて自分が納得・満足できる」使い方をしたいものだ。


しっかり考えればいらなかったものを衝動的に買ってしまったり、後悔するようなお金の使い方をしてしまった経験を重ねるうちに、ある程度「自分が幸福感を感じられるお金の使い方」が、その輪郭がぼんやりと見えてきたような気がする今日この頃なので、せっかくなので文章にまとめてみよう、というのがこの記事の主題である。いつものことだけど、前座が長いね。


幸福感を感じられる3つのお金の使い方


「知」にお金を払う


僕は学生時代から「読みたい本は身銭を切って買うべき」と考えていた。たとえその本がBOOKOFFで100円まで値下がりしていたものだとしても、それが「知」である限りはお金を払うことで敬意を表すべきだと思っている。


そういうわけなので、図書館で借りた本はせいぜい数えられる程度で、それも自分で学費を支払っている(奨学金なので現在進行形)大学の図書館で、レポートを書くのにどうしても必要な(でも自分の興味はない)文献を数冊と、3年生の冬にふと「冬休みの間にユングの著作を読み通そう」と思い立って(就活もろくにしないで本を読む出来の悪い学生だった)、一冊につき8000円くらいする「ユング著作全集」を借りたくらいだ。


誤解なきよう補足しておくと、僕は決して「公共の図書館で本を借りるのはよくない」と言いたいのではない。公共の図書館は市民から集めた税金で運営されており、本を借りることは認められた権利である。あくまでも僕自身の価値観として、「価値あるものに対しては自分の実感を伴う形で対価を支払いたい」と考えているだけだ。


僕にとって自分が好きでやる勉強や学習にお金を使うことは、非常に満足感を伴うものである。


最近だと高額な本を買ったのは、ハンナ・アーレント「全体主義の起源」3巻セット(合計1万5千円くらいだったかな?)、それから「源氏物語(現代語訳)」3巻セット(合計1万2千円)が大きな買い物だった。


もちろん、実際に買うときはげんなりするものだ。レジでクレジットカードの暗証番号を打ち込みながら「このカードが今だけ使えなくなっていればいいのにな……」と思ったりもする。1冊数千円の本を買うのは例外的だけど(1ヶ月につき1冊程度)、新品の書籍は文庫本か単行本かの違いはあれど大体1000円から2000円くらいはするものなので、「ああ、今月も節約しなきゃ……」と一抹の悲壮感が心に生じることは隠しきれない事実である。


ただ、不思議なことに本を読んだ後には「この本、安過ぎないか?」と思うものだ。というか、僕が自分で「これでだいたいどんな本でも読めるようになったな」と自信を持てるようになったのは(ここまでに10年近くを要した)、「本の値段が安過ぎる」と感じるようになったのとほとんど時を同じくしていた。つまり、本という形に凝縮された「知」の真の価値を理解できるくらいには成長した、ということなのだろうと思う。


たとえ1億円積もうとも、ハンナ・アーレント(20世紀最大の女性思想家と称されている)に会うことはできないし、紫式部(いわずもがな世界最古の小説の作者)と話をすることもできない。彼女らは類まれな知性を持って遠い昔の時代に生きて、そして遠い昔に死んでしまった人々だから。


「本」というのは、僕のような凡人が1000年生きても得られないような「知」が詰め込まれたものだ。つまりは「知のタイムマシン」である。僕らは本という魔法の道具を通じて、本来ならば絶対に出会うことのできない過去に生きた人物の、そして自分より遥かに優れた知性を持った人物の思考を学ぶ機会を得ることができるのである。



もしもタイムマシンという夢のような道具が実現したら、あるいはタイムマシンが実現する見込みのあるプロジェクトが立ち上がったとしたら、莫大なお金を出してでも手にいれようとする人々が現れるだろう。その一方で、現に存在する「本」という「知のタイムマシン」にお金を払おうとする人はそれほど多くない。


「本」は「知性の金塊」だ。「金」に価値があることはだれもが認めるだろう。しかし、「知」に「価値」があると理解できる人は本当に少ない。「知」には金塊を遥かに凌ぐ価値があると理解できるようになるには、相当な知性が求められるからだ。(本に限らない話だけど、日本社会は概して「知」に対してお金を払うというマインドセットが欠如しているように思われる)


集中力を買う


「集中力はお金を払って買うものだ」と気がついたのは、これもまた僕が大学生の頃だった。あるいは、「お金で買ってでも手にすべき資産」だと知ったとも言えるだろうか。


僕は大学の図書館ではどうしても集中できなくて、朝の一限目の講義の前に30分しか時間がなくても大学の近くのスタバで本を読み、午前中の講義が終わると再びスタバに戻って読書をしていた。そういえば講義を受けている教員に見られて「スタバでコーヒーを飲みながら本を読むなんてリッチじゃないか」と冷やかされたこともあったな。


たぶん大学のグレーを基調とした図書館が、僕には薄暗くてじめっとした空間に感じられたのかもしれない(ちなみに最寄り駅の他のカフェもダメだったのは、改めて考えてみると照明がスタバに比べて暗かったからかもしれない)。スタバの明るさや開放性が僕には合っているようで、今となってはスタバ一択である。


たまに某ハンバーガーショップを使うことがあるけれど、高校生が多いことや、こういう言い方はあまり良くないけれど「低価格ゆえに客層が落ちる」ので、本当に集中したい時には使わない。「客層」について具体的に説明すると、「愚痴・噂話・陰口」が隣から聞こえてくると、僕の集中力は一気に低減する。人の話し声、特に「いまここにいない人についての話」が聞こえてくると、どうしても気が散ってしまうのだ。



しばしば「スタバは高い」と言う人がいるけれど、たった200円余分に出すだけで周囲に「静かに勉強をしたり仕事をしている人しかいない」空間を手に入れられる確率が高まると考えれば、僕にとっては安いと感じられる(あくまで確率の問題なのでハズレを引く時もあるけれど)。


僕が不思議でならないのは、勉強や何かを学ぶために場所代を払うことに抵抗を感じる人が多いことだ。


スポーツジムには通う人は、器具や設備もさることながら、「そこにいけば自然と集中できる」からこそ、月額いくらを払ってでも通っているのではないだろうか?スポーツ・ジム=肉体の鍛錬のための場所にお金を払う人は多いけれど、知性=頭脳の鍛錬のためには場所代を払う人は多くなく、そもそも「知性の訓練には集中できる場所が必要だ」という認識があまりにも浸透していないように感じられるのは、僕の気のせいだろうか。


もう一度言うけれど、「集中力とはお金で買うもの」である。少なくとも僕にとっては、多額の資産を投じてでも手にすべきものである。無料で手に入ると思ってはならない。場所や環境によって集中力には大きな差が出る。集中力のない学習や勉強はどれだけ積み重ねても意味がないというのが、僕の偽らざる実感だ。


体験を買う


本を買うのとほぼ同じで、学習の機会や未知の世界を知るためにお金を使うことも、僕にとっては満足度の高いお金の使い方だ。たとえば美術館に行くことや、旅行にいくことがこれに当てはまる。


モノはいつか壊れる。あるいは失くなる。そうでなくても僕はものを破壊しやすく(入社2週間で会社のスマホの画面を割ったことがある)、失くしものをしやすい(中学生以来、大きな傘を持ち歩かないことにした)、鈍臭い人間だ。どれだけものにお金をかけたところで、壊れてしまえば何の価値もないに等しい。


一方で、体験したことは決して失われることはない。まあ、記憶喪失みたいな事態が起こらないとは限らないけど、基本的には。


美術館でモネの筆使いに心を打たれた感動が失われることはなく、旅先で友人たちと一緒にシャチの泳ぎを見た過去が無かったことにされることはあり得ないだろう。落合博満氏の講演会で聴いた話は、間違いなく僕の拙い知の体系に取り込まれているはずだ。そしてBUMPのライブで愛する嫁ポケと一緒に「アカシア」を歌ったあの日の思い出は、記憶を司る神にだって消せないはずだ。


美術館や講演会、それから習い事などはたしかに安いものではないし、実用的な効果(特に短期的な効果)は期待しにくいものではある。だけど、僕は実際に身銭を切ってそれらの「体験」を買ってみて、たしかに金額に見合うものであるとは感じた。


本来なら遠い異国の地まで足を運ばなければ見れないゴッホやピカソの絵を日本で見られると考えれば、2000円ぽっちなど安いものじゃないか、と。普通に生きていれば話すことはおろか、会うことさえできない偉大な功績を残した人物の話を生で聴けるのなら、5000円なんていくらなんでも安すぎるぜ、と。


終わりに


いつものことだけども、気がついたら予定よりもはるかに長い文章になってしまった。本当はもっと書きたいことがあったけれど、とりあえずこれで終わりにする。


この記事で書いたことはあくまで僕自身の実体験から得た独断と偏見にすぎない。読者の方々には自分で稼いだお金は自分で好きなように使う権利があり、僕と同じでないからといって見下したり蔑むようなつもりは全くない。ただ、今の自分のお金の使い方に疑問を感じている方がいれば、「へえ、こんな変な考え方をする人もおるんやなあ」くらいに思ってもらえれば幸いである。

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