パリの美術館合宿で学んだ「木を見て森を見る」こと
仕事をやめた。パリに行こう。
また仕事を辞めてニートになった2024年4月のこと。
早く次の仕事を探さないと、という焦りの裏側には、果たしてこのままずるずると同じように生きていていいのだろうか、と人生に対する疑念が張り付いていた。
何かを変えないといけない、ううん、自分が変わらなければいけない、そういえば海外旅行なんてどうだろう?
そして、ある日突然、青く晴れ渡った雲ひとつない空から雷が落ちるみたいにして、エピファニーが私の心を貫いた。
フランスに行こう。いいえ、私はフランスに行かなければならないのだ、と。
エピファニー(epiphany)。
神からの啓示、あるいは呼び声みたいなもの。
いやいや、そんなスピリチュアルみたいなこと、私の人生にあるんかい?
パスポートとクレジットカードを取得したものの、果たして本当にフランスに行くという選択は正しいのだろうか?
なにしろ、アラサーと呼ばれる今の年齢になるまで海外旅行になどいったことがないから、飛行機の乗り方さえよく知らない。
しかも、パリはどう考えても海外旅行初心者に向いている街ではない。
治安は悪いとは言わないまでも良いとは言えないし、フランス語ができなくても英語で大丈夫とは言われてもそもそもイングリッシュすら怪しいんですけど。
それでも、今ここでやらなければならないのだ、という思いだけは揺るがなかった。
ここが人生の勝負どころだ、今フランスに行かなかったら、私はこの先一生フランスどころか海外になんて行かないだろう。そして、「人生どうでも飯田橋」を座右の銘にしたまま、この世界を恨み続けて生きていかなければならないのだ。
フランス行きの飛行機とホテルを予約する。30万円ほど。9日間。1週間後に出発。
は? 1週間後? いくらなんでも急すぎない?
やれるか、やれないか。そんなことを考えても意味はない、と私は知った。
するべきことは、「やる」と決めて、「じゃあ、どうやればできるか?」を考えることなのだ。
だれかが言ったように、「いつか」は永遠に来ない。
1週間後に、私はパリに行く。そう決めてから出発の日まで、不安と恐怖はどんどんと大きくなっていた。
引き返したかった。30万円をドブに捨てることになってもいいから、フランスになんて行きたくないと思った。たかが旅行だ。行って何かが変わる保証なんてないし、いかなくたって死にやしない。
それでも、私は信じてみたかった。私の胸に差し込んだ一筋の直観の光を。
私という人間を、遠いところからだれかが呼んだこと、その事実を確かめに行きたい。
そう、たかが旅行だ。だれかが私を呼んだ、だったら行ってみればいい。
だれが私を呼んだのか?
その正体を語れるようになるのは、残念ながらきっとまだまだ先のことになると思う。
あるいはそれは、私が死ぬまで抱え続けるべき秘密なのかもしれないけど。
語りえないものについては沈黙せねばならない、と言ったのはウィトゲンシュタインだった。
じゃあ、私は語れることについて語ろうではないか。
パリ美術館合宿記でございます。
パリでいったいなにをするつもりなんですか?
さて、パリに着いた(そこまでにも色々あって面白い人にも会ったけど長くなるので省略。たいへんだけど楽しかったなあ)。
初日の夕方にシャルル・ドゴール・空港に到着したので、正味の行動開始は2日目からとなる。
2日目の朝、7時に目を覚まして動き始める。
いざ思いつきでパリに来たものの、下調べもいい加減で計画と呼べるほどのものは持ち合わせていない。まるで教科書すら持たずに登校する小学生じゃないか。君、初海外だよね……?
とりあえず、凱旋門でも見てみるか、と思ってホテルの最寄り駅であるポルト・ド・ベルサイユ駅から地下鉄に乗ってなんとかエトワールみたいないな名前の駅(※シャルル・ドゴール・エトワールでした)で下車。
さっそく事件は起きる。モグラが眠い目をこすりながら巣から這い出るみたいにのこのこと地上に出てると、凱旋門の周辺ではライフルのようなものを持った厳しい制服の男たちが立っているではないか。いや、これは本物の銃ですよ。
そして、「POLICE NATIONALE」と表記された車両が目に入る。なるほど、警察ではございませんか!
「Non,non……untara・kanntara(いや、ダメだ、うんたら・かんたら)」
女性が警察と話をしていて、フランス語で何を言っているのかよくわからないけど、とにかく通行止めらしいことだけはよくわかった。なるほど、ね。
いやいや、え、ちょっと待てい、通行止めって、なんでどういうことよ?
フランス語(英語も)は小学校1年生並みにしかできないので、とにかくお巡り殿には近づかないことにする。怪しまれて職質なんかされたら無職だとバレてしまうから。
とりあえず凱旋門を見てシャンゼリゼ大通を歩く、というプランはあっけなく水泡に帰した。さよなら、三角チョコパイ(また来て四角)。
いやいや、冗談じゃなくてさ、ほんまに今日、どないすんのん、まだ朝の8時やぞ?
このようにして、私のパリ旅行は実働初日にして計画崩壊。
もちろんプランBなどというものはなく(1週間前にチケットを取るようなズボラ人間にそんなものがあるわけない)、その後、呆然とした表情を浮かべてあてもなく1時間ほどパリの街を彷徨い歩くことになった。
ええぇ……どうしよう……「地球の歩き方」はホテルに置いてきちゃったよ。
まだ人気のない朝のチュイルリー公園で、私は途方に暮れた旅行者に成り果てた。
それから気がついた「お腹減ったぁ」。
ふとスタバの紙袋を下げた日本人旅行者が歩く姿を目にする。そっか、スタバならフランスにもあるんだ。
機内食を最後に何も食べていないお腹は空腹の絶頂を迎えつつあったので、Googleマップを頼りに近くのスタバに向かう。
パリのスタバ!……と喜んだのも束の間、店内に入るも、どうやって注文するのかもよくわからない。日本と同じでいいんですか? しかもメニューを見てさらに驚く、ドリップコーヒーがないだって?
フランス(ヨーロッパ)にはエスプレッソというそれはそれは濃ゆいコーヒーを少量、とってを親指と人差し指でつまめるミニチュアのおもちゃみたいな小さなカップで飲む文化がございまして、読者のみなのものもご存知の日本で飲めるコーヒーは99%がドリップコーヒーなのですが、要するに文化の差がこんなところにあるわけで。
ちなみにスタバの店員さんの説明によりますと、ドリップは大体1気圧(自宅の水道から水が出るくらいの圧力)で抽出するのに対しまして、エスプレッソは専用のマシーンで9気圧でぐぐっと抽出するのだそうです。へええ。
ちなみにのちなみに、スタバの創業者(というよりはスタバが出来立ての初期に入社&後に買収した)ハワード・シュルツさんは、旅先のイタリアで飲んだ濃いいいいいエスプレっっっソのビターーアアアで豊かな味わいが忘れられず、どうにかアメリカに広めたいという思いを抱いていたそうな、豆知識。
拙いフランス語と英語を織り交ぜて注文し、2階席で濃ゆいエスプレッソとベーコン&ハム・マフィンを食べる。優雅な朝ごはん。エスプレッソ、おいしーーーーーーーーーーー!
……いや、もう一回聞くけどさ、この後、どうするん、ほんとに?
とりあえずフランスといったら、美術館だよね、そうだ、京都に……じゃなくて、美術館に行こう。
初日から何もしませんでした、なんていう事態だけは絶対に避けなければ。
なにしろ、飛行機とホテルだけで30万円以上もかけてこの地に来たのに、そしてこれから8日間も過ごすのに、よりによってスタートダッシュに失敗するわけにはいかない。
まずは何か動き出さないと何も始まらないではないか。今日何もしなかったら、明日から遅れを取り返そうと焦ることになるのは目に見えている。
9時になる。近くのオランジュリー美術館(モネの「睡蓮」の連作が所蔵されていることで有名)に着くも、もう「予約者」の列ができている。そうか、美術館に入るのに予約がいるのか。
えええ?どうするんだい?
いや、落ち着こう。ルーブルとかオルセーみたいな大きなところはダメでも、予約なしでも入れる美術館だってあるはずだ。教えて、Google先生。
ふむふむ、北の方に行くとギュスターブ・モロー美術館なる場所があるらしい。
ここならそれほど大きくなさそうだし、当日突撃でもいけるっしょ、となめた感じで向かった。
こんな感じで無計画の賜物として訪れたギュスターブ・モロー美術館から、思いもしなかった「美術館合宿 in パリ」が始まってしまったのだけど、人生というのはよくできているというか、偶然のように見える出来事こそがその人を向かうべき先に導いてくれるのだというのが世界の真理みたいだ、と知ることになるのはもっと後の話。
美術館合宿とは?
美術館合宿、とは聞きなれない言葉だと思うけど、それは私が生み出したワードなので当然。
やることは単純にして明快。
ひたすら美術館を巡り巡る、ただそれだけ。
どれくらい回ったか? 実働8日間で18ヶ所。平均すると1日あたり2〜3ヶ所になるけど、実質はそんなにやわなものじゃない。
だいたい2〜6日目までの5日間に集中して14ヶ所を訪ね(7・8日目はパリ郊外に足を伸ばし、9日目は帰国日)、しかもルーヴル&オルセーの両美術館は並の美術館3〜4個分の大きさと所蔵量がある。
しかも、ビンボー無職者の私は交通費を節約すべく、ホテルから最初の目的地と帰り道の1日2回しか地下鉄に乗らず(2.15€×2回)、妖怪アップルウォッチによれば1日平均で25〜30キロもパリの街と美術館の中を歩いたのだ(信じられん……)。
毎日のように朝から晩まで、絵や宝飾品を見続ける、というかもはや「美を浴びる」状態を続けたのだった。
モネ、ルノワール、マティス・ピカソ……絵画の1000本ノックとはこのことよ。
「用意された遊び」ではなく、ゆっくり歩いてたっぷり水を飲む。
パリに行くならですね、ぜひ美術館合宿をやってみてほしい、とは言わないけれど、これは日本では絶対できないのでやる価値はあると思う。ていうか、やろうと思っても日本では条件的にできない、ほんとうだぞ。
どういうことかと言いますと、パリはご存知の通り「芸術の都」でございまして、目と鼻と口ともうちょっといって耳の先にすら美術館があるような、膨大な数の美術館・博物館・記念館があるのです。
日本の美術館は上野に集中していることを除いては、都内に点在してしまっているので、距離が離れていて移動だけでかなりの時間とお金がかかるし、何よりとても「合宿」に耐えられるほどの数が存在しないのです。
そう、私は初日におまわりさんに出会ったおかげで(ぼーい・みーつ・ポリスメン)、思いがけず「美術館合宿」という遊びを生み出すことになったのだった!
あの日に凱旋門が包囲されていたことは、今から振り返ればとんでもない幸運だったのです、うん。
「地球の歩き方」をはじめとする観光案内って、結局は「だれかが考えた遊び」でしかないんだ。いや、地球の歩き方にはお世話になったので悪くいうつもりはなくて(書籍自体は本当によくできてる)、要するにあれは教科書みたいなものだってこと。
教科書には絶対に「間違い」を載せてはいけない。そうだよね?
でもね、実際にはうっかりとか偶然とかあるいはアンラッキーに見えるようなことから、面白いことっていうのは生まれてくるものじゃないかな、と。
教科書の解き方も知っておくべきではあるけれど、それは模範解答ととでも呼ぶべきもので、そこからはみ出したもの、つまり「別解」こそが旅を豊かにしてくれたりはしないだろうか?
日本の社会の息苦しさって、みなのものが「模範解答」を求めて生きることにあるのかもしれない。
どういうことかって、世の中にはたった一つの正解が、つまり「最も効率的なルート」があって、できる限りその道を進むことが幸せになるための近道で、そこから離れてしまうほど「人生=ハードモード」になると、思い込んでいるんじゃないかしらんと。
旅行に関しても(日本人に限らないけど)、模範解答って、ガイドブックに載っている場所やネットで出てくる有名な場所にいって、人の後頭部しか見えないような中で苦心して映える写真を撮って、「(いかにも)観光しました!」とSNSで自慢すること、みたいになってないすかねどうすかね?
私はSNSをやってないのでいちいち「映えー」なんてことを気にしなくていいから、だから「合宿」なんてことをやれた部分はあるかやもしれない。
実際に友達に「パリで美術館合宿してきた」といっても、「は?何それ?」みたいな顔されてスルーされたけど、それくらい私がやったことは「模範解答からかけ離れた、別解中の別解」だったのかもしれない。あのさ、わざわざパリにいって観光スポットに行かないで、何をしてるんだよ、とね。
でもね、生まれ育った日本という平和でご飯が美味しい閉鎖空間を出てみて気がついたのは、結局のところ、人生っていうのは誰かに「用意してもらった遊び」をしたって何の個性も創造も生まれなくて。
お腹を空かせて、地べたを這いずり回るようにして歩き回って、そうやって何もないところからしか自分なりの「遊び」だったり「意味」を作り出すことはできなかったり。
ゆっくり歩け、そしてたっぷり水を飲めって、村上春樹という作家が言った。
私はそれを読んだ時に面白い比喩だな、と思ったけど、パリの街を足が壊れるんじゃないかってくらいまで歩いてみて、その言葉が「現実」であって、例え話なんかじゃないってことを、ようやく理解できた気がした。
ゆっくり歩くこと、それから水を飲むこと。
急いで走って景色を素通りして、コンビニで売ってるレッドブルなんか飲んで徹夜して、いったいあなたはどこに行きたいのかな?
美術館合宿の効果「ぜんぶの木を見て森を知る」
合宿、というからには、乗り切った後に何かしらの効果が欲しいものだ。
1000本ノックに意味がないなら、だれもやりたくないでしょうに。
観察力と集中力。
私は自慢じゃないけどもともとの観察力がものすごく低い人間なので、パリ合宿の後にはそれはそれは眼球を取り替えたみたいに色んなものがよく見えるようになった気がしている。
あとは、一つの絵をじっと見続けることで集中力も高くなった。
やっぱりね、ある短期間に集中してほとんどひとつのことだけ徹底してやってみると、成長するスピードが段違いだった。
毎日のように絵画や本物のお宝(貴族が所持していたもの)を鑑賞していると、特に何百枚(1000枚は超えてるか?)もの絵をじっくりと見ることを通じて、「違いに気がつく」ことが上手くなっていく。
私はパリに行く前は美術館通というほどのものではなくて、1年ほど前にちょっとしたきっかけで「あー、もしかして、そろそろ美術の勉強せなあかん?」と思って、要は美術史とか技法とかには全然詳しくないアマチュアであります。
もしも読者のみなのものの中に「美術館合宿やってみる!」と触発されるような頭のネジがぶっ飛んでる方がおりましたら(いないでしょ)、とりあえずこの1冊だけ読めば「だいたいどの美術館でも楽しめる」という本があるので、ぜひぜひお読みくださいませ。
あ、これはアフィリエイトとかじゃないぞ(ほんとうかなあ?)、これはめちゃくちゃいい本ぞよ。
自慢するわけじゃないけど、私は他の人が美術館を3〜4周している間に、同じ美術館を1周だけする自信がある。つまり、私はひとつの絵を観るのにとんでもない時間がかかるので、後ろから来た人たちにどんどんと追い抜かれていく。同じタイミングで入場したカップルが仲睦まじくパフェを分けっこしている頃に、私はやっと半分も進んでいないのである、えへん。
前述のギュスターブ・モロー美術館の学芸員のおばちゃまに「あんた、いったいいつまで見てるんだ」と笑われたりもした。私としては普通に見ているつもりなのだけど、どうやら標準的な鑑賞時間ではないらしい。
先日も上野の東京都美術館でデ・キリコ展を3時間半かけて観てきた。友人との約束があったので、最後のフロアは駆け足で回ったのに、どんだけ時間かかるんだ。
長くなるからあえて一言でまとめるなら、「観察力」の高さは「どれだけ目を動かすか」と同義である、というのが私の結論。
たとえるなら、サッカーが上手い選手ほど運動量が多いのと似た理屈で、観察力が高い人は1枚の絵を観る中で目の運動量が多い。
木を見て森を見ず、という言葉があって、細かいことばかり注意を向けて全体を見ないことを意味する。
そういうわけで、多くの人は「木を見てはいけない。森を見なければ」と勘違いする。
木を見ずに森を見ようとした結果を芸術的に表現したのが、ピカソやマティスらに代表される「キュビスム」という絵の描き方(ではないかと思う、よくわからないけど)。
森を見ているつもりの人間はたいてい「ぼんやり」としか見えていない、というか森を見ようとする人間にはそもそも森なんて見えなくて、せいぜい四角とか丸みたいな単純な図形でしか認識していないものなのだよ、ワトソン君。
もしも森を見たいのならば、本当は「すべての木を見る」べき、ということに気がついたのがパリ美術館合宿の効果。
全部の木に隈なく目を走らせ、しかも一度だけではなく2周3周と回数を重ねることで、1周目には見落としていたことに気がつくことができる。
木を見て森を見ず、を正確に言い換えるならば、「木を見ないから当然森も見えない」。
すべての木を見る、さすれば森を見ることに通ずる。
このあたりの話は面倒臭いからやめよう。
美術史の知識がなくても、リーディング・ラインを読むという技術さえ身につければ、美術館を楽しめるだけでなくて、日常の観察力や集中力も高まるよっていうお得なお話でした。
いや、美術史とか色彩の知識はないよりはあったほうがいいんだけど(当たり前のことだ)、最初はなくても大丈夫って話。
というわけで、今回はこの辺で、パリ美術館合宿記はひとまず終わり。
#一度は行きたいあの場所
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?