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希望は何処へ

自らの幸せを願うのは当然のことだが、それが報われないときはどのような顔をして生活するのが正解なのか。澄ました顔で何もなかったかのようにしているほうが良いのか、それとも感情を大きく出して助けを求めるのが良いのか、人の本性は追い込まれたときに出るとよく言うが正直追い込まれることに慣れてしまうとそれが普通と誤解してしまう。だからこそ感情の管理をうまくすることがこの先の人生において意味を成すのではないか。
 今まさに自分は負の感情に支配され、底のない恐怖に慄いている。ここから抜け出せるあてもなく、いつ終わるのかもわからないこの感情は死神による殺害予告と大差はない。漠然とした不安に対して日夜精神をすり減らしている。質が悪いのは自分が勝手に自分を追い込んでいて、しかもそれを自覚しているという点だ。他人を責めるわけでも、物にあたるわけでもない。少しの理性が残っているからこそ奇行に走るという選択肢が失われている。つまり自分を追い込む他にストレスを吐き出すことはできないのだ。
 今まで自分なりに頑張ってきたつもりだった。でもそれが報われていない以上、どうすることもできない。どんなに頑張っても報われないうえにエールも自分には聞こえない。周りは幸せに見えてどこか一人暗い場所に置いて行かれた感覚に陥った。この状況を一発で打破できる爆弾の起爆スイッチは暗闇に紛れ、姿を消した。度重なる不幸に太刀打ちできる力はもう残っていない。このまま不幸が続くのであれば天命を待つ人形になるだろう。それだけ自分の心は荒みきっている。ここまで負の感情が先行すると惰性で生きることに抵抗が無くなってくる。頑張ったところで報われないのなら省エネモードで生きていくほうが目先の利益になる。でもそれは一生上がり目のできないそれこそ感情のあるロボットに過ぎない。今はまだかすかに残る豊かな感情で日々を”過ごしている”が、それすら失い日々を”こなす”ようになった瞬間に自分の人生は終わったに等しい。ここまで予測ができるのならば希望の花は高嶺の花となり、幸せな人々を羨望の眼差しで眺めるだけの人間になる日もそう遠くないかもしれない。元々鮮やかな色の花であっても一度黒色が混ざるともう二度と鮮やかに輝くことはできない。色を差してくれるものが現れるまでは、、

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