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へんてこな二世帯住宅に生まれ

小学生6年の時、自宅を建て替えるまで、我が家はとても不思議な構造でした。

まず玄関がありません。正確に言うとあったんだけど、独身の叔母との2世帯で暮らしていたので、玄関は叔母の領域にしかつながっておらず、丸山家には台所につながる勝手口があるだけ。サザエさんでいうと、三河屋さんが入り浸る小さな入口です。

勝手口を入ると唐突に台所。初めて来た友達は大概びっくりします。6畳ほどに4人掛けのダイニングテーブル。そして脇には、浴室に通じるドアがあります。脱衣所はないため、母親が入浴する際にはもれなく裸体が目に入るという仕掛けになっていました。付け加えれば、トイレは勝手口を出た屋外にありました。当然夜は怖いです。

丸山家の一階は以上です。

続いて二階。狭い台所を通り抜けた先には階段があります。それを昇ると1.5畳ほどの廊下があり、なぜかオルガンが置いてありました。二階は二部屋続きになっています。奥の部屋はどうやら増築したらしく、兄が生まれた時点では丸山家は1DK。その後2DKに家族4人で暮らすようになったのです。

恥ずかしい話ですが、私は小6まで、両親と同じ部屋に3人で寝ていました。(恥ずかしついでに言うと、小学生になってもオネショをしていました。)奥の部屋は兄と私の勉強机がありましたが、なぜか寝るときは両親の部屋。当時「児童会長」を務めていた私にとって、学校で知られてはいけないトップシークレットの一つでした。親しかった友達を除いては、家屋を見られることだけは避けねばなりませんでした。

そころが小6の時の担任が、とんでもないことを言い出します。

「夏休み、全員でみんなの家を見に行きます!」

おいおい、教師による集団いじめじゃないか。丸山家をみんなで見に来る?そんな思いも伝わらず、クラスみんなが我が家の実態を知ることとなったのです。

そんな少年の一番の趣味は、新聞の折り込みに入ってくる、建売住宅やマンションのチラシの収集でした。それを眺めては、この家に引っ越すとしたらどの小学校に転校するんだろうかと思いを巡らせていたのです。

うちは造園業だったので、トラックと自家用車、2台の駐車場が必要です。ある時、それをクリアする建売住宅のチラシが入り、とにかく見に行こう!と親を誘って出かけました。その物件は、吹き抜けのある白い一軒家。当時住宅ローンは金利が4%くらいだったと思います。自己資金は500万円。残りはローン。うちはボーナスが無いので、毎月均等のローン支払いが10万円。今でもはっきり覚えています。毎月10万円なんてきっと払えない・・・と自分でもわかるほど、家を買うことのハードルは高いと思い知らされました。

しかしどうしても諦められません。そしてチラシを集めるだけでは飽き足らず、方眼ノートに間取りを書き溜めるようになりました。それまでに間取りを見慣れていたため、どのくらいのサイズが必要かは把握していました。方眼紙の2マスを畳一帖に換算し、精密な図面を定規と鉛筆で書き起こすという恐ろしい子供でした。(この技術は、仕事でも実は役に立ちました)

ある日、坪単価23.8万円で家が建つ! というチラシが入りました。そして、自宅の寸法を自分で測り、敷地面積をおおよそ割り出し、丸山家を建て替えた場合の費用を計算し、親にプレゼン。叔母と一緒の2世帯住宅を設計し、丸山家の負担分は約800万円でいいことをつきとめたのです。

これならいける! これならローンなしで家が建つ! こうして親も説得し、ギリギリ中学に上がる前に丸山家に晴れて玄関が設置されました。打ち合わせにはすべて立ち会いました。近所のアパートに引っ越し3カ月の建て替え期間を忍びました。うれしくてうれしくて、基礎工事からすべての工程を見に行っていました。山清という会社だったかな。そこの担当者の方には、将来うちに来るか?と誘われましたが、丁重にお断りしました。

建築中の楽しみは、詳細見積書を見ることでした。そこには様々な工賃や単価が載っています。青写真の設計図を広げて、ここにはこんな素材が使われているのかと感心したものです。防災上、ガラスに針金が入っていないといけないからこの窓はオプションとか、細かな点にも目を輝かせました。

うちの親を説得するためには本当に骨が折れました。でも、今思えば貴重な経験をさせてもらった。熱帯魚の水槽は浴室しか置き場がなかったし、勝手口の外に並ぶ靴は冬冷たいし、残念なことばかりだったけど、それが自分をつくってくれた。ありがとう! 丸山家!




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