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夫婦間の会話に必要な”共感”ってなんだろう

 数日前、夫とケンカをした。というか一方的に私が臍を曲げている。ものすごーく些細なことなのだが私のなかでどうも納得いかずに尾を引いてしまっている。理由は端的に言うと私の話に夫が共感してくれなかったからだ。

 私がその日たまたまTwitterでみた、ある3歳児の驚きの行動の話を夫に「びっくりだよねー」と話したら「それくらい子どもならするよ」と共感してもらえなかった。ただそれだけの話だ。共感してもらえなかったというか、むしろ私としては私の驚きの気持ちを否定されたように感じてしまい、なんとも気持ちが落ち込んでしまったのだ。

 一言、「そうだね」「びっくりだね」と言ってほしかっただけなのに。

 夫が言うには、自分はその話を聞いて驚かなかったから、私の気持ちに共感して「そうだね」というのは自分の気持ちに嘘をつくことになるからできないそうだ。

 相手の気持ちが自分の気持ちと違うとき、相手の気持ちに共感することは自分に嘘をつくことになるのか?共感って自分の気持ちと相手の気持ちが異なってたらできないことなの?でもそうすると人の気持ちはずっと平行線で交わることはないけれど、それってとても悲しいことなのじゃないのかな?

 などとつらつらと考えていたときに、ブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の本に書かれていた「エンパシー」と「シンパシー」の話を思い出した。

 この本は著者のブレイディみかこさんが英国での子育ての体験のなかから、英国の政治、経済、貧困、移民問題などについて一般市民のリアルの生活を通じて書かれた本で第2回Yahoo!ニュース 本屋大賞2019 ノンフィクション本大賞など様々な賞を受賞されている。実体験に基づいて書かれているのでとても読みやすくまた息子さんが非常に魅力的なところもよい一方で、人種の多様性など色々と考えさせられることが多い本だという印象が残っている。

 その本の「5 誰かの靴を履いてみること」にエンパシーという概念が英国に住んでいる人々のみならず世界中の人々にとって切実な問題になってきていると書かれている。さらに、エンパシーと混同されがちな言葉としてシンパシーが挙げられている。それによると、オックスフォード英英辞典のサイトではシンパシーは「1.誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと」「2. ある考え、理念、組織などへの支持や同意を示す行為」「3. 同じような意見や関心を持っている人々の間の友情や理解」であり、エンパシーは「他人の感情や経験などを理解する能力」と書かれているそうである。そこから著者は「シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出てくる。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力」であり、「シンパシーは感情的状態、エンパシーは知的作業」と結論づけている。

 ブレイディみかこさんのシンパシーとエンパシーの話を読み返してなんとなく自分のなかでしっくりした。私は夫に感情的に支持や同意できない、つまりシンパシーできないからといって切り捨てるのではなくて、シンパシーはできないけど私の気持ちを理解しようというエンパシーの行為が欲しかったのだ。

 夫婦間を良好に保つための方法として巷では「夫が妻の話に共感すること」といったことが言われている。でも共感ってすごく難しい。シンパシーのレベルで終わってることもたくさんあるんじゃないだろうか。私自身、夫に対して単なるうわべだけの共感になってエンパシーができているかどうかと言われると自信はない。

 正直なところ今でも夫に腹は立っている。でもいつまでも私が臍を曲げていると夫も嫌な気分になっているだろうとは思う。私もその夫の気持ちに共感してそろそろ機嫌をなおすとしよう。

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