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感情は死んでいなかった

急な斜面を登っていた。ぼんやりとした頭ですれ違う人にあいさつをする。「ああ、こんなに朝早いのに同じように登っている人がいるんだ」と心の中の誰かと話をする。

前日は雨だった。どろどろの道を靴が汚れないように気をつけて登る。暑いのか汗がとめどなく流れる。山に登るのは久しぶりのことだったということに気付いた。呼吸が荒い。

ベンチがあった。ザックを下ろし、登ってきた方向を見ると、曇り空の中に、晴れ間が見えた。遠くに禿げた山の斜面が見える。冬になると人が滑り降りるのだろうか。

何かを忘れようとしようと、勢いよく登って来たのだけど、頭の中にそのことが鮮明に浮かび始める。

「別れたくない」

別れたくないから、ひたすらそれから逃げてきた。考えることを止めた。流れに身を任せようと、主体的に動くことを止めた。そういえば、最初からそんなことをしていなかった。その場の流れに適当に流されてきた。

そのことに向き合うことは到底無理だった。相手の気持ちも考えずに、死ぬ振りをして、山に登っている最中だった。

本当は、彼女の気を引きたかった。もっと自分のことを理解して欲しかったのだと、今になって気付く。気付いて欲しいもなにも、本当の自分をさらけ出していなかったから、かなり傲慢だったのだと思う。

足を進めると、いつしかそこは頂上だった。誰もいない。あるのは小さな神社と、座ることができる切り株だった。切り株に座ってみて、ザックを開けた。

おにぎりがあった。死にたいと思っていたのにおにぎりが中にあった。一口かじった。塩がちょっぴり効いていて、米の甘さが引き立っていた。違和感を感じて、左手の指を見ると、ぷくっと膨れ上がって、少しかゆい。

変だなあ。まだ味を感じるし、かゆみも感じる。自分の感情はまだ死んでいなかった。五感は残っていた。わざと開かなかったLINEを見ると、自分を心配する文面があった。それは滲んで見えた。僕は泣いていた。


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