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第十三景 余生を生きている話

僕は余生を生きている。離婚してから、明確に生きている意味を見出せている気がしない。

生きている事を実感するために、別れてから色々なことを初めてみた。クラフトビール集め、ひとり旅、ソロ登山、新しい恋人探し。

この1年、なんとか突っ走ってきたが、どうもしっくりこない。それはなぜなのだろうか?

ひとりで出来ることが多いからだろうか?

例えば、はしご酒をしようと1ヶ月先の予定を立てたとする。その予定のために、日々生きることを頑張ることは出来る。

当日は飲んだくれ、おいしいものを食べ、きれいな風景を見て、道を歩き、とても充実した時を過ごすことができる。

その時はものすごく楽しい。しかし、それが終わってしまえば何とも空虚な気持ちになってしまう。抜け殻になってしまうのだ。

パートナーがいた時は、楽しみが終わっても、その人がいるという事実だけで頑張ることが出来ていたと思う。

僕は、自分自身のために生きることができないのだろうか?

今日もそんな気持ちを打ち破るために、ひとり、地域情報誌で見かけたスパイスカレー屋さんに出かけてみた。

店内はとても雰囲気があり、オシャレだった。カップルで来ている客はいなかったし、他にひとりで来ているひともいた。

2種類のカレーを頼み、副菜も何種類もあり、かなり充実したカレーセットだった。そしてクラフトビールも扱っていて、また行きたいと思った。

美味しいものを食べ、その時は大変満足した。そのあと家に帰ってきて、アマプラで映画を観た。

この前観た「来る」という映画はホラーコメディというジャンルで、なにも得るものがなかったため、今日はじっくり精査した。

探していると面白そうな邦画があった。「名前」という映画だった。ひとりの男と、ひとりの少女の交流を描いたものだった。

主人公は結婚生活で齟齬が生じ離婚し、貫き通していた自分を否定されてから、本当の自分というものが分からなくなり、色々な偽名を使い、誰かに成りすまして生きていた。

逆に少女は、母親家庭で父親という自分のルーツが分からず、色々な自分を演じて生きてきた。

そんなふたりの邂逅を描いた作品だった。結果的には、主人公は再び自分として生きる道を見つけ、少女は自分のルーツを見つけ、本当の自分として生きる道を見つけていた。

僕はこれを見て普通に泣いた。僕にももっと相手を理解することが出来たのではないかと思い、かなり悔しかった。

元ツレのために生きたいと思っているけど、今のところそれを実現出来そうにない。

そんな僕はこれから何を目標に生きていくのだろうか?

彼女のために生きていけないのなら、余生を生きているように感じる。

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