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第五十五景 生きている意味を考える話

何かに縛られていないと、生きている意味があるように感じられない時がある。誰かといた方が、自分が存在しているということを実感しやすい。誰かと一緒にいるときは、相手に応えるためにあれこれと考えている。それが生きているという実感に、繋がるのかもしれない。

パートナーがいなくなってから、なんとか自分の中で楽しみを作ってきたけれど、生きていても意味がないのではないのかと、徐々に考えるようになってきた。それほど、僕の中で彼女の存在は大きいものであって、いなくなったというその喪失感を埋めているつもりでも、実は埋まっていないのかもしれない。

週末の楽しみとして、ひとり飲みや、日帰り温泉や山登りに行く予定があるときは、そのことを考えることが多いので、なんとか誤魔化すことが出来ている。

しかし、その楽しみを消化した次の日などは、また喪失感や無力感を感じてしまうことがよくある。そのときもまた、音楽を聴き、本や漫画を読み、映画などを鑑賞して、誤魔化す。ときには、お酒で誤魔化すこともある。

訪れる虚無の時間が辛いという訳ではなく、ただただ無気力になる。なんのために生きているのか分からなくなる。でもなんのために生きているのか分からないことが辛いとは思わない。

そういう時は、今、世間で起きている事への興味も無くなるし、何もしたくない。その正体を探ろうと、自分の中にあるものを、文章にして、奥底にあるものを吐き出そうとしている。

パートナーや世の中のことに対して、何かを思うこと、それが自分を動かす原動力になっていたのに気づく。何かに縛られていた方が力が出る。世の中に対して不満を持つことも時々ある。感じる矛盾については、どうにかしたいとは思うけど、自分にはその力も無いから、どうにか自分で自分を納得させる他ない。

そう割り切って自分中心に生きようと思っても、自分のためだけに人生を生きるのはもったいないとも思う。その反面、誰かのために生きるというのも、どこか面倒くさい。

だからと言って、世間や人を避けている訳でも無く、人と関わることも楽しい。でも人と関わりを持つことを目標や楽しみにして生きるのも、やはり面倒くさい。

そもそも、自分がどうなりたいのかという、理想の姿がないのかもしれない。自分は自分以外のものにはなれないし、何をやっても自分であることからは逃れられない。それは紛れもない事実なのだ。あの人になりたいとか、誰かを羨むことは、ほとんどない。死んで生まれ変わったとしても自分として生きたい。

新しい自分を発見しようと、ビール作りや、物書きなど新しいことにも挑戦してはいるのだが、それにも限界を感じる。自分の可能性を感じようと挑戦することで、それが自分には難しいという現実を知り、知らなかった自分の可能性を自分で潰しているという行為にも無力感がつのるばかりだ。

それでも騙し騙し生きるしかないのかもしれない。ぬけがらじゃないフリをして、生きているフリをして。

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