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第六十六景

世界が一変した夜から数日後の夜、包丁を持ち、街灯が照らす道と、その明かりから外れた真っ暗な道を交互に歩いていた。存在する全てのものから身を隠したかったし、この世界にまだ留まりたいとも思っていた。梅雨が明けたのか明けていないのかも、よく分からなかったが、じめじめとした空気が漂っている。あてもなくふらふらと歩いていると、他人の住宅の前に差し掛かり、この中にはどんな世界があるのだろうと通り過ぎる。前方に目を凝らすと、薄暗がりの中から、女性と思しき影が現れた。こちらに向かって歩いてくる。手に持った包丁に意識が集中し、自分の身体の影に隠すようにした。何も咎められなかったことに安堵し、また歩き始めると線路があった。視線を落とすと、錆びた線路が、踏切の赤く点滅するライトを浴びて鈍く光っていた。線路の上でしばらく立ち止まり、電車が来るであろう方向を眺めると、まっすぐに延びる線路の先に、家なのか、なんなのか分からないが、点々と明かりが見えた。また暗闇と、街灯が照らす道を交互に歩き出す。自分の住んでいる家が見えてきた。自分の家とは反対側の歩道へ、うつうつとしているのに、走れるのが不思議だと思いながら小走りで向かう。反対側の歩道を歩きながら、車がひっきりなしに走っているのを横目で見ていると、次第に自分の視界から、自分の家が消えた。見えなくなっても歩き続ける。街灯の明かりが無くなり、本当の暗闇が目の前にあった。怖くなって、方向転換し、元来た道を戻り始めると、近くに停まった車のハザードランプに照らされた自分の家が見えた。点滅とともに交互に浮かびあがる自分の家をしばらく眺めていると、ポケットに入れていたスマホが震えた。死ぬというような脅し文句をLINEで送り、家から飛び出してきたことを思い出し、家に戻ろうしたが、気が進まなかった。返信を考えていると、画面が切り替わり、切り替わった画面が、電話がきたことを知らせる。通話ボタンをタップすると彼女の声が聞こえてきた。慣れ親しんだその声は、どこか冷たかったが、一番聞きたい声はその声だった。

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