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魂は「善いもの」にあこがれる

霊操23
原理と基礎
人間が造られたのは、主なる神を賛美し、敬い、仕えるためであり、こうすることによって、自分の霊魂を救うためである。
霊操46
準備の祈り
自分のあらゆる意向と行為と働きが、ひたすら主なる神への奉仕と賛美だけに向けられるよう、主の助けを願う。

16世紀に書かれたカトリックの有名な黙想書に記されている文章です。これによると、人間が造られた目的や生きる意味は、神への奉仕と賛美のためのようです。このような人間の人生の意味は、人間中心の考え方にとっては、ナンセンスなものととらえられるかもしれません。神ではなく人間が主体的に人生を切り開くべきという考え方もあると思います。人間が生まれてきたことに意味なんてないという無常観におちいることもあるでしょう。わたしたちの魂の中には、この世界に充満している「善いもの」へのあこがれがあって、絶えず不足感にさいなまれているのではないかと思います。超越したもの、神の存在をわたしたちはいつも問題にしてきました。一方で、人間のエゴイズムは社会の分断や環境の悪化をもたらしてきました。

人間の存在はたいへん不思議なものであって、その存在には大きな意味があるのではないかと思っています。わたし自身も、人間の生きる目的が、神への賛美と奉仕のためだけという考えにちょっと違和感を感じています。しかし、人間の生きる目的が、神への賛美と奉仕のためという考えの反映として、神を愛するように人をも愛するとか、そのような考えに結びついているのでしょう。

・・・一人の律法の専門家が、イエスを試みようとして、「先生、どのおきてが律法のうちで、いちばん重要ですか」と尋ねた。イエスは答えて、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛せよ』。これがいちばん重要な、第一のおきてである。第二もこれに似ている。『隣人をあなた自身のように愛せよ』。すべての律法と預言者の教えはこの二つのおきてに基づいている」と仰せになった。(新約聖書 マタイ22:35〜40  フランシスコ会訳)

わたし自身は日頃、享楽的に生きていますが、時々ふとむなしくなることがあります。皆さんはそんなことないですか?

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