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世界一の幸せ

秋らしい空が広がるようになった。私の好きな季節が始まって、わくわくする。

洗濯物を干しながら、白いモクモクした雲が映える青空を見ていたら、あたたかな陽射しと共に、とても嬉しいメッセージを受け取った。最近、じわじわと、その感覚を体で味わっている。

もがいた結果・・・

今まで、娘のことで、いろんな人に話を聞いてもらい、相談に乗ってもらってきた。対処療法的に、親の対応についてアドバイスをもらったこともあるし、そもそも不登校は問題なのか?と問われたこともあった。学校が全てではない、という人もいたし、学校に行けるように導くのが親の役割だという人もいた。

どの考えも、ありだと思った。

ただ、正直なところ、様々な考え方を知れば知るほど、私は混乱した。情報に翻弄され、どうすればいいかが、わからなかった。私はどうしていきたいのか、何が私たち家族にとってベストなのかを、一生懸命考えたが、あぁでもない、こうでもないと、ループするばかりだった。

散々考えて、頭が疲れて、頑張ってみてもうまくいかず、もうお手上げだ、なるようにしかならない、流れに任せようと思えた翌朝、「私は世界一幸せな母親だ」という言葉が降ってきた。不思議なのは、ものすごく突然だったのに、驚きも、戸惑いもなく、「そうか、そうだよね」と受け取れたことだ。

それ以来、心配や不安を娘に感じることが激減した。

何があっても、それは私たち親子に必要な学びを与えるために起きている。出来事自体にネガティブもポジティブもない。頭ではわかっていたが、そのことが、すぅーっと体の中に入ってきた感じで、日常での様々な出来事を、とてもフラットに見られるようになった。

今までずっと、起きた出来事に対して、「私が」もっとよくなるように何かしなければ、とか、「私が」もっと頑張って何とか事態を収拾させなくては、「私が」変わらなければ、と、無意識に、常に肩に力が入っていた。それが、入浴中に体が温まり、リラックスしたような感覚で、目は覚めているがふわっと軽く気持ちよくなった。ぼーっとすることもあって、長年の癖から「あ、ぼーっとしちゃった!」と我に返り、焦る瞬間もあるが、それでも「何してたんだろう私、無駄な時間を過ごして・・・」と自分責めをすることは、なくなった。

2学期初めての登校

そんなある朝、娘が言った。

「ママ、今日は1時間目に間に合うように学校行くから、準備手伝って」

「え?今日?行くの?」

突然すぎて私は驚いたが、何を手伝えばいいのか娘に聞き、1時間目に間に合うよう、娘を連れていった。

とはいえ、昇降口から、二階にある教室までの娘の足取りは重かった。娘のクラスは1番奥で、3つのクラスの前を通らなければならない。

「ママと一緒にいるところは、見られたくない」

そう言って階段を上り、立ち止まり、握った手を離そうとしない娘に

「どうしようか?」

と尋ねると、娘は無言で私の手を引っ張り、ゆっくり教室の方へ歩き出した。3つのクラスのドア付近は早足で通り過ぎながら。

娘のクラスの後ろのドアに着いた時、たまたま、クラスメイトが一人振り向き、娘に気が付いた。その子は、静かに席を立ち、前にいる先生の所へ行き、娘が来たことを告げてくれたようだった。先生が廊下へ出てきてくれた。

娘は、先生に迎えられ、ちょっと恥ずかしそうにしていたが、仲良くしている女の子のお友達にも声をかけられ嬉しそうだった。私は、そっとその場を離れた。

下校してきた娘は、興奮気味に、お友達と遊ぶ約束をしたこと、苦手な避難訓練があったが平気だったことを話し、待ち合わせ時刻になると公園へいそいそと出かけて行った。

翌日以降は、何事もなかったかのように、学校に行こうとはせず、家でいつものように楽しそうに過ごしている。夕方になると、宿題を提出したり、担任の先生からクラスの様子を聞きに、学校に行く日もあるが、行かない日もある。あの日は、娘の中の何かが、彼女に行動する勇気を与えた日。突然に見えたが、何かに導かれた気もしている。

突然に見えるけれど

こんな風に、ここ1カ月間、私には突然に見える娘の行動が、他にもあった。

ベッドで寝たら寝相が悪いから落ちる、ママと手をつながないと眠れない、一人で寝るのは怖いと泣いていたのに、ある日

「今夜から一人で、自分の部屋で寝るんだ」

と言って、いそいそと自分のお気に入りのぬいぐるみと毛布、枕を運びこみ・・・夜になり、寝る前に絵本を読んでいると

「もう寝るから、ママは自分のお部屋で寝てね。トイレに行きたくなったら呼ぶから、起きてね。おやすみなさい」

と、ドアを閉め、あっという間に寝付いた。

私がPTAの用事で、学校に行っていた日。出かける時点では、何時に用事が終わるかわからなかった。目処が立ってきたので、留守番していた娘に、

「あと30分くらいで終わりそうだよ」

と電話をしたら、

「今から学校行くから、教室で待ってて」

と言われた。

娘は、必要な持ち物をそろえ、家の鍵を閉め、下校している上級生に遭遇するとドキドキするからと、通学路とは別の道を、雨の中、一人で歩いて来た。私の姿を見つけると

「雨だから、水をはじく上着に合わせて、服をコーディネートしなおしたんだよ」

と誇らしげだった。

やってみたいという気持ちを、実行に移す力が少しずつ備わってきたのか、何かが回復してきたのか。いずれにしても、一歩一歩成長しているのは明らかだし、彼女の中で、変化が起きているのも感じる。以前も書いたように、無自覚かもしれないが、娘の中に、自分自身を動かす根拠は確かに存在している。夫や私には、それが見えないが故に、不思議で、突然に感じたが、今こうして振り返ると、娘の力に任せながら、背中を押したり、見守ったり、その時に必要なサポートさえも、目の前の娘をよく見て見極めていけばいいのだと思う。

夫婦の変化

夫は、娘の変化について、なぜなんだろう、理由が知りたい、とつぶやいているが、以前のように「なんで?」と、繰り返し娘に問うことはなくなった。不思議がってはいるが、少しずつの変化を、温かく微笑ましく見守ってくれている。元々の夫の優しいまなざしが戻ってきたように見えて、私はとても嬉しい。

娘が登校したとか、しなかったとかで、一喜一憂し、感情を揺さぶられ、夫婦でお互いに、相手の育児方法が悪いと責めあっていたが、それもなくなった。「今日は行かなかった」と報告して、「なぜ行かなかったんだ」「行かせようとしないのがいけない」と言われることもなくなり、「そんな日もあるよ。行けるときに行けばいいよ」と、話せるようになったことは、大きな進歩だ。

また、娘の行動や思考パターンに少しでも変化の兆しがみられると、その変化が定着することを期待してしまい、私の期待通りにならないと落胆していた。よく考えれば、自分のことは棚にあげて、娘や夫にばかり期待を押し付けていたことにも気が付いた。私だって、行動を変えたいと思っていても、実際に変えるまで時間がかかるし、変えてみた行動が、すぐに定着するとは限らないのだから、そんなものだ。

前世でやりたくてもできなかったことを経験するために生まれてきたならば、私は今世、母となり子どもを育てるという夢を、娘によって叶えてもらった。経験したことのない子育てだからこそ、わからないことが多く、試行錯誤もするし、うまくいかないこともある。自力でどうにもならない状況に降参することで、「天に任せる」ことを学び、ガチガチに力の入った体から力を抜く経験も、させてもらっている。子育てしなければ、気づかなかったこと、得られなかったことは多く、それらは無形だが私の財産だ。やっぱり私は「世界一幸せな母親」だ。

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