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「文明と文明の交差点(前編)」世界遺産の語り部Cafe #15

今回は、

トルコ🇹🇷の世界遺産【イスタンブール歴史地区】についてお話していきます。


【“歴代大国の首都”として幾度も改名】


トルコ北西部に位置する「イスタンブール」は、ローマ帝国やビザンツ帝国、オスマン帝国といった大国の首都であった歴史を持つ都市として知られています。

ハギア・ソフィア大聖堂

イスタンブールの起源は、紀元前7世紀頃にギリシャの都市国家である「メガラ」のビザス人が建設した都市とされています。

ビザス人にちなんで「ビュザンティオン」と名付けられたその都市は、ローマ帝国に占領されると「ノヴァ・ローマ」と改名され、首都に見合う都市として大規模な建設が始まります。

しかし、この名称は長く定着しません。

395年、ローマ帝国は「聖像崇拝論争」の末に、東西で分裂してしまいます。

聖像崇拝の禁止を巡る論争で対立

ローマ帝国はそれぞれ、西側は「カトリック教会」の総本山である西ローマ帝国に対し、東側は「ギリシャ正教」を信仰する「ビザンツ帝国」と呼ばれるようになります。

この時、ビザンツ帝国の首都の創設者であるコンスタンティヌス帝の名を取り、「コンスタンティノープル(コンスタンティヌスの町)」と、再び名を改めました。

コンスタンティヌス帝は、313年に「ミラノ勅令」を発布し、ローマ皇帝として初めてキリスト教を公認した人物としても知られていますよね。

コンスタンティヌス帝

オスマン帝国の支配下に入って以降、コンスタンティノープルは「イスタンブール」と改名され、オスマン帝国崩壊後にトルコの首都がアンカラに移転するまでは首都として機能していました。

【トルコ国旗のデザインには諸説あり?】


トルコ国旗に描かれている「三日月と星」のモチーフは、イスラム教の象徴であり、多くのイスラム教国の国旗に使われています。

トルコ国旗

国旗のデザインの起源は、ビュザンティオン時代に月の女神である「アルテミス」信仰があったとされることから、アルテミスのシンボル“三日月”が用いられ、コンスタンティヌス帝が「聖母マリア」を表す“星”を加えたという説があります。

月の女神アルテミス

また、オスマン帝国の初代皇帝「オスマン1世」が夢の中で、自分の胸から三日月と星が出てきて、コンスタンティノープル陥落の前兆を知らせたことが起源という説もあったりします。

オスマン1世

その他、いくつかの諸説が存在しますが、どれも決め手となる確証はないのだとか。


【大宰相チャンダルルの伏魔殿と快刀乱麻を断つメフメト2世】


オスマン1世と同じく、コンスタンティノープル陥落の前兆として、三日月と星を夜空に見たと伝わる人物がいます。

弱冠21歳にして、コンスタンティノープルを陥落させ、オスマン帝国の版図を大幅に広げたことで「征服者(ファーティフ Fatih)」と呼ばれた「メフメト2世」です。

メフメト2世

コンスタンティノープルの陥落は、積極的な外征と迅速な決断で“稲妻”と呼ばれたオスマン皇帝「バヤジット1世」でさえ、成し遂げることはできませんでした。

バヤジット1世

バヤジットの曾孫にあたり、野心家であったメフメトは、あるいは12歳の時に即位した時点で、既にその悲願を成就させる野望を胸に抱いていたのかもしれませんね。

しかし、大宰相「チャンダルル・ハリル・パシャ」の策略により、メフメトの父である「ムラト2世」が再即位する形で、まだ幼かったメフメトは退位させられてしまいます。

チャンダルル・ハリル・パシャ
ムラト2世

さもありなんというべきか、チャンダルルはビザンツ帝国側と癒着しており、報酬として多額の賄賂を懐に入れていました。

ムラト2世の死後、退位から5年を経て再び即位したメフメトは、常設部隊である「イェニチェリ」の軍隊長さえ例に漏れず、チャンダルルに関係の深い周囲の人物たちを片っ端から一掃していきます。

イェニチェリ軍団

曽祖父の異名を借りるように、“稲妻”のような即決で快刀乱麻を断ったメフメトは、「ボスフォラス海峡」沿いに「ルメリ・ヒサル」を建設してコンスタンティノープル攻略に向けた拠点を作り、着々と準備を固めていくことになります。

ルメリ・ヒサル


↓後編に続く↓

【1985年登録:文化遺産《登録基準(1)(2)(3)(4)》】



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