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「文明と文明の交差点(後編)」世界遺産の語り部Cafe #16


前編に引き続いて、トルコ🇹🇷の世界遺産【イスタンブール歴史地区】についてお話していきます。


前編はこちら↓


難攻不落の城塞と門外不出の秘密兵器


既に大国となっていたオスマン帝国であっても、“難攻不落”を誇っていたコンスタンティノープルの攻略は至難の業でした。

その理由の一つは地形です。

コンスタンティノープルの都は半島の先端に位置しており、全体を「テオドシウスの城壁」と呼ばれる3重の高い城壁で囲まれた、三角形の形状をしています。

コンスタンティノープルの形状
テオドシウスの城壁

さらに南側の「マルマラ海」は、世界でも有数の速さで知られる「ボスフォラス海峡」の海流による影響を強く受けるため、南からの侵入は困難です。

マルマラ海

一方で、北側の「金角湾」はボスフォラス海峡の海流の影響は弱く、過去に一度だけコンスタンティノープルが攻略された「第四回十字軍」の際は、金角湾がウィークポイントとなって城壁を突破されていました。

金角湾
第四回十字軍の“コンスタンティノープル包囲戦”

ビザンツ側は、その弱点を重々承知しており、金角湾側を「鉄の鎖」で封鎖し、鎖の内側には船の操舵に優れた「ジェノヴァ」の艦隊を配置して鉄壁の防御を固めていました。

金角湾の入口に張られていた鉄鎖

加えて、ビザンツ帝国は「ギリシャ火薬」と呼ばれる秘密兵器を有していました。

ギリシャ火薬は、一度火が付くと水をかけても消えないと言われ、「デュロモイ船」に搭載された火炎放射器から放たれた火は、海上でも燃え続けたと言います。

デュロモイ船

ギリシャ火薬の製法はまさに“門外不出”の秘密であり、今となってはもはやロストテクノロジーとなっています。


戦況を一変させた奇策“艦隊の山越え”


「コンスタンティノープル包囲戦」の火蓋が切られたのは、1453年4月のことです。

コンスタンティノープル包囲戦(1453年)

オスマン軍の地上部隊は「ウルバン砲」と呼ばれる大砲を導入しますが、ウルバン砲は一発放つごとに砲身を冷まさなければならない難点があり、1日7発前後が限度でした。

ウルバン砲

大砲の特性を理解するビザンツ側は、城壁にウルバン砲が撃ち込まれるごとに破壊された箇所を補修することで、オスマン軍の侵入を巧みに阻んでいました。

同様に城壁の下に穴を掘り進めて侵入を試みるも、ギリシャ火薬によって阻まれるなど手詰まり状態となります。

撤退の二文字が浮かぶ中、メフメトは状況を一転させる奇策を講じます。

コンスタンティノープルが過去に一度だけ、攻略された際の「金角湾」に焦点を置いたメフメトは、その入口から5キロほど北に離れた海岸に艦隊を配置します。

それから山を切り開いて道を作り、そこに油脂を塗った丸太を敷き詰め、夜通しで約70隻の艦隊を山越えさせ、金角湾の鉄鎖の内側まで運びました。

艦隊を運ぶオスマン軍

歴史に伝わるところの、いわゆる“艦隊の山越え”です。

‘’艦隊の山越え‘’

翌朝、金角湾に浮かぶオスマン艦隊を目撃したビザンツ兵は動揺を隠せず、金角湾側にも防衛線を分散せざるを得なくなりました。

5月24日の夜、コンスタンティノープルの上空では月食が起こり、満月の時期であるにもかかわらず、三日月のような形状の月が昇ります。

これが単なる月食に過ぎないことは、当時の人々の誰もが理解していたことですが、まるで1000年以上存続してきたビザンツ帝国が、滅亡する予兆にも見えていたかもしれません。


混乱の中で散ったビザンツ最後の皇帝


もはや趨勢は決した中、ビザンツ皇帝「コンスタンティノス11世パレオロゴス」は、メフメトからの2度に渡る和平交渉での開城要求にも、“帝国なき皇帝として生きることは神に誓ってありえない”と断固拒否しました。

コンスタンティノス11世パレオロゴス

一説によれば、彼の最期は大剣を抜き払い、皇帝のきらびやかな衣を脱ぎ捨て、親衛隊と共にオスマン兵に向かって突撃したと言われていますが、創作により美化された感も否めず、実際のところは良く分かっていません。

ともあれ、1453年5月29日のコンスタンティノープルの陥落を以って、ローマ帝国の終焉と見なされる場合もあるそうです。

この出来事は、歴史上においても大きなターニングポイントとなりました。

聖地であるコンスタンティノープルが陥落して教皇の権威が失墜したことによって、後の「宗教改革」の遠因となり、陥落に前後して多くの学者や知識人が西欧に亡命したことで「ルネサンス」へと繋がります。

さらには、コンスタンティノープルを通過する海運ルートを失ったキリスト教国は、新たなルートを模索するべく「大航海時代」の始まりを告げることになります。


オスマン帝国の首都“イスタンブール”へ


戦後、コンスタンティノープルから「イスタンブール」へ名を改めたメフメトは、「エディルネ」から機能を移転して、この地をオスマン帝国の首都と定めました。

イスタンブール

ビザンティン建築における最高傑作とも評されるハギア・ソフィア大聖堂は、「アヤ・ソフィア」としてモスクに改修されます。

アヤ・ソフィア

さらに、ビザンツ時代からの“旧宮殿”に、“新宮殿”を造営する形で「トプカプ宮殿」が完成します。

トプカプ宮殿

17世紀になると、スルタン・アフメト1世によって「スルタンアフメト・モスク」が建造されました。

ブルー・モスクの内部

青い色調の美麗さから“ブルー・モスク”とも呼ばれるスルタンアフメト・モスクは、優美な6本の「ミナレット」と大ドームの外観が特徴的で、“世界一美しいモスク”と評されています。

また、オスマン帝国最盛期のスレイマン1世の治世時代には、「ミマール・スィナン」が設計した「スレイマニエ・モスク」が建設されています。

スレイマニエ・モスク

私がイスタンブールを訪れた際、大変印象的だったのは、街歩きをしているだけでも古来からの変遷がひしひしと感じられ、まさに“歴史地区”という言葉がしっくり来るような地だということです。

古代ギリシャ時代の「蛇の柱」とオベリスク
コンスタンティノープル最古のアギア・イリニ教会
アレクサンドロス大王の石棺
ビザンツ時代に建造された地下宮殿

イスタンブールの旧市街には、狭い隘路の足元に、古い石畳が敷かれた道が張り巡らされています。

イスタンブール旧市街の石畳

古代ギリシャからローマ帝国、ビザンツ帝国を経て現在に至るまで、歴史的建造物が各地に残存しており、東西文明の十字路であった歴史を物語る街並みは、イスタンブールにおける最大の魅力かもしれません。

【イスタンブール歴史地区:1985年登録:文化遺産《登録基準(1)(2)(3)(4)》】



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