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第一章:銘信

一筋の涙が、頬をついと流れた。
銘信めいしんは、まぶたの裏にまで届く日の光をまぶしく思い、ふっと目を開けた。
頭上では木漏れ日が、ゆらゆらとゆらいでいる。
降り注ぐ陽光にぐっと目を細める。
いつから眠っていたのか、衣服にはじっとりと汗がにじんでいた。
この真夏の暑い最中に、神社の境内の一等大きな岩の上で昼寝を決め込んでいたのは、そこが真夏でもひんやり冷たいからだと知るからである。
さやさやと、木の葉のかすれる音が耳に心地よい。
足元の池の中では、ゆうゆうとふなが泳ぎ、その背中に太陽をきらめかせている。
銘信は岩の上からそれを見やると、今一度大きく伸びをした。
太陽は既に真上を通り過ぎているらしく、わずかな影がひざ元から伸びていた。

「めいしん!」
ふいに銘信のことを呼ぶ声がする。
呼ばれた方を見てみると、境内の隅、社の影になるところに、こちらへ駆けてくる九朗の姿が見えた。
「おお、九朗、どうした」
九朗は、今年十二になる銘信の弟である。
「どうした、じゃないよ。危ないよ、そんなところに登って。すぐ下は池じゃないか」
言いながら九朗は、背丈ほどもある岩のてっぺんに座る自分の兄を見上げる。
「心配しぃだなぁ、九朗は。そんなことだと若いうちから禿げてしまうぞ」
「えっ本当に?」
九朗は両手で自分の頭をさすった。
「悩むのは女のことだけにしておきたいね」
銘信はそう言うと、段々になった岩をひょいひょいと降りてきた。
今年十六になった銘信の背丈は、九朗の背丈より頭一つ分大きい。
「またそんな大人みたいなこと、言って。女の人といい仲になったこともないくせに」
そう言って九朗はけけけと笑う。
「九朗、お前どこでそんな言葉を覚えたんだ」
言いながら銘信は弟の頭をくしゃくしゃといじりまわした。
「今日は何をしような」
二人がそんな会話をして、午後からの時間の使い方を考えていた時であった。
――しゃん。
と、どこかから心地よい鈴の音が聞こえた。
一つ、二つの鈴ではない、何個もの鈴の音が重なって聞こえた。
兄弟は動きを止めた。
蝉の声が降りしきる境内の中で、二人が一遍に聞き違いをしたとは考えにくかった。
二人は顔を見合わせる。
そこへ、また、――しゃん、と、鈴の音が聞こえた。
「聞いたか、九朗」
「うん、聞こえた。鈴だね」
二人はは、ばかるようにして、肩をすくめてあたりを見回した。
――しゃん。
鈴の音は、社の向こう側、この神社の表側から聞こえてくるようである。
「行ってみるか」
銘信が言う。
「うん」
弟の返事を待たずに、銘信は歩みを進めていた。

――しゃん。
暑さのこたえる真夏の午後である。
広い境内には、人ひとりいないはずであった。
――しゃん。
しかし、鈴の音をたどって行ってみると、社の表、境内の石畳の上に、ひとりの人影があった。
それは、少女であった。
少女は白い着物に緋色の袴を履き、額に金色の冠をつけていた。
そうして、ゆっくりとした動きで両手を大きくまわすと、その手に持った鈴の束を、しゃん、と一度、鳴らすのであった。
兄弟は互いの顔を見合った。
言葉が、出ない。
そうこうしているうちにも、少女はまるでそこに何らかの音楽が奏でられているかのような調子で体を揺らすと、大きくその場でひるがえって膝をかかえる。
そこでまたひとつ、鈴を、しゃん、と鳴らすのであった。
兄弟は社の角にへばりつき、頭を上下に並べて少女の舞を見守った。
少女は舞に夢中らしく、兄弟の存在には気が付いていないようだった。
「きれいだね」
弟の九朗が、すぐ上に頭のある銘信にひそやかに伝える。
幼いながらに、なぜだかこの舞を邪魔してはいけないと心得ているようである。
銘信は、いまだ言葉がない。
「銘信?」
九朗がいぶかしがって銘信の方へ目をやった。
すると銘信はそんな九朗を邪魔だとばかりに手で押しやって、少女の方から顔を背けないでいる。
「銘信ったら!」
思わず九朗が銘信の足を踏む。
「いてっ」
「いてっじゃないよ。鼻の下を伸ばして、みっともないよ」
九朗は、ひそやかに、けけけと笑ってみせる。
兄は、そんな弟の頭をわしゃわしゃと混ぜ返し、次のように告げた。
「九朗、俺はあの女子に惚れた」
「ええ、またぁ」
弟は、兄の惚れっぽい気質を嫌というほど知っていた。
「今度のは違う。本気だ」
「はいはい」
兄は毎回、こう言うのだ。
川沿いの洋子とも、市場裏のよねとも、長くは続かなかったくせに。
しかし、今度の少女はこの長門の町の少女ではない。
今回は何がどう転ぶことやら。
弟の頭の中では、そんな逡巡がなされているのであった。

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