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死を意識してこそ、生を全うできる

みなさま、ごきげんよう。

いきなり、何のタイトルやねん。ヘヴィー過ぎん?という感じですが、12月になると、必ず「死」を意識する。

私は12月の終わり、年末に誕生日を迎える。

自分の誕生日がある月だからというのもあるが、身近な人を12月に何人も亡くしている。

私は、生きて歳を重ねていくのに、12月に死んでいってしまった人たち。

その両極端な関係に想いを馳せると、「死と生は表裏一体」だと感じる。

「生きるってどういうことなんだろう。自分はどういう生き方をしたいのだろうか。死ぬのはこわいの?何のために生まれて、何のために死ぬの?死ぬことは皆、等しく訪れるのならば、なぜ生まれてくるのだろうか?」

と、考えていた。

死んでいってしまった人たちは、バイク事故である日突然だったり、病気であったり、頭の打ちどころが悪くて死んでしまったり…など様々な理由。

病気であれば、死ぬまでに時間があるので、ある程度「自分は死ぬのかもしれない」を死を覚悟する(覚悟なんてそうそうできないと思うけれど)時間がある。

だけど、突然や気づいたら死んでいた、という人は、自分が死ぬということを意識していただろうか。

朝、起きて今日自分は死ぬのを分かっていただろうか。

答えは、否であると思う。

多くの人が、

今日も昨日と同じような毎日が続くし、会おうと思えば誰にでも会えて、いつかやりたいことは別に今日でなくともいい。伝えたいことは、また今度。

こんな生き方をしているのではないだろうか。例に漏れず、私もそうだ。

「いつ死んでもいい生き方をする」

これは、一体どれくらいの人が実行しているのだろうか。

一歩間違えると、刹那的で危うくて自滅の誘惑も孕んでいるような気がしてならない。

そう私が感じるということは、刹那的で一瞬の興奮やハイになれるような体験を心のどこかでは欲しているからかもしれない。

自制や社会的通念、ルールの箍を外したら世界はどうなるのだろう。

過去の自分の行動を振り返ると、事象のスケールは違えど、理性や欲望の箍を外して刹那を楽しむことを実行したことがある。果たしてその時どうだったか。


「後悔」をした。


別に、自分の行動で誰かを傷つけたとか、迷惑をかけたとかではなかったが、余計に渇きを感じるというか、喪失感を感じた。

本当の欲望を違うもの、つまり代替品で埋めようとしたからだと思う。
その根本が満たされないと、あれやこれやと手当たり次第、時間やお金を無駄にする。これが人間関係やパートナーシップだったら、人を傷つけ失うこともあるだろう。自分との関係だったら、自分を大切にできなかったり、自傷をしてしまうことになるだろう。

つまり私は、「いつ死んでもいい生き方をする」について、誤解をしていたのだ。

これは決して、刹那的な興奮や快楽に身を任せて、好き放題やることではなく、自分自身の深いところとの対話をして、それにあった行動や選択を日々していくことなのだ

根本が満たされないと、他の何で埋めようとしても、結局満たされない。

むしろ、他のもので埋めようとすればするほど、より渇き、不足を感じ、求めてしまう。

「いつ死んでもいい生き方」とは、自分の魂(といったら急にスピリチュアル感が増してしまうが)や潜在意識と顕在意識を一致させ、一つひとつ選択・行動をしていくことだと思う。

そりゃ、生きていればいろんなことが起こる。人生は、「まさか」の連続で、小説より奇なり。

それに惑わされていると、自分の本当の感情や欲望が分からなくなってくる。そうして、自分を騙し続け、これでいいんだ、これが自分なんだ、と思い込んで自分を石灰化させていく。みずみずしさを失っていく。

また、感情に良い悪いのジャッジをして、例えばネガティブな感情を抱いた自分に対して、なかったことにしようとしてしまうケースもある。

感情を感じていることは、確かなことなのに。

一生付き合う自分だから、どんな自分も受け入れたいと思う。そして、自分を受け入れられたら、他人も許容できるようになると思う。

そして、お葬式へ参加して思ったこと。

死に際に、生き様が出る。
生を全うできない人は、死も全うできない。

命を燃やし尽くした人の表情は、それが例え傍から見たら「辛い」人生だったかもしれないが、清々しい表情をしている。

人生の満足度は、他人がとやかく言うことではない。

全ての答えは、自分の中にある。

吐く息白く、8℃と36.5℃のコントラストに自分の生をより一層強く感じる冬の朝。

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