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真実はひとつではない

わたしはコナン世代なので
「真実はいつもひとつ」と信じてきた。

けれど、あれ?最近はその解釈、「その真実」真実じゃない?
「真実じゃない?」と思っている時点で「真実はひとつ」ではない。
(言葉遊びになっているけれど)

物語を作っている方々(小説家や漫画家、芸術家)は恐らく気づいている。
真実は多様だ。人ぞれぞれに持っている。
真実は事実という点を結んだ線を歩く様なものである様に思う。

どのような順番で、どの様な繋ぎをするかで、道のでき方が変わってしまう。(図形的な解釈で分かりづらいかもしれないけれど、真実はxyzt(縦横高時)だけでなく多様な軸が360°無限に存在いるイメージを浮かべてもらえたら幸いです)

事実(証拠)はひとつしかないけれど、真実は多様だ。
そして、その道のりは長い。
犯人を特定する行為は真実を歩くことでなく、事実を特定しているだけに思える。

そんなモヤモヤを抱えながら、モモと河合俊雄先生のモモ解釈本を読む。

(河合俊雄先生はユングを読む際にお世話になり続けている先生です。)

おしゃべりな「ジジ」と寡黙な「ベッポ」。
ふたりとも「モモ」の親友。

「モモ」「ジジ」「ベッポ」の関係から
河合俊雄先生は心理療法の観点から「真実」について以下の様におっしゃっていた。

「自分の中にある話は人に語られないと自分にとっての事実にならない」

「自分さえ分かっていれば、人に言わなくても同じだと思うかもしれません。しかし、そうではない。誰かに共有されることによって、初めてそれは本当のことになるのです。」

そう、お気づきの方がいらっしゃると思う。

名探偵コナンでもラストシーンでは、犯人は罪を認め、それをコナンや毛利小五郎に打ち明け、真実を共有する。

「真実がいつもひとつ」なのは、最後に犯人が罪を自白し、他者と共有するから。
やっとひとつの謎が解けた。

わたしたちも真実を生み出すために読書し、noteを書いているのかもしれない。

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