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きょう夜、ごはんはなに食べる?

「さいごに食べたいごはんはなに?」
幼いのわたしの稚拙な質問を思い出していた。レオナルドダビンチの最後の晩餐の作品をなにかの本やテレビで知ったときにその興味が生まれたことを覚えている。
(わたしだったら、どんなごはんを食べたいかな)
(お父さんだったら、なにを食べたいかな。食べさせてあげたいな)
なんて気ままなものだった。
そのため、父がなにを食べたいと言ったのかも覚えていない。

(父が食べたさいごのごはんはなんだっただろう。)
母の情報からぼんやりと想像をした。事実としては最後の晩餐だけれど、わたしが聞きたかった、聞いたであろう「さいごのごはん」ではなかった。
さいごのごはんなんて存在しないのだ。

それよりも、わたしを支えたのは
(さいごに食べさせてもらった料理はなんだっただろう。)
という記憶だった。

今年の年末年始は父に会えた。パンデミックのため、愛媛の父と会えたのは2年ぶりだった。
実家に帰るたびに父は毎日ご馳走を作ってくれるのが恒例だ。実家は瀬戸内海に面し、新鮮な魚介類に恵まれていることと、父は東京のお寿司屋さんでアルバイトしていたこともあり、まるまるの魚を刺身にしたり煮たり焼いたり自由自在だ。
さいごに食べさせてもらった料理はたぶん『ヒラメの煮付けと牡蠣、コチの刺身、作った白米、玉ねぎの味噌汁』だった。

最後の晩餐で描かれている、ワインはキリストの血、パンはキリストの肉を分け与えるモチーフだそうだ。
最後の晩餐は自分が満足するものを食べることではなく、自分を分けることが目的だったのだ。「最後に食べさせたい料理はなにか?」それが最後の晩餐のメッセージだったのだ。

父に作ってもらった料理、それはわたしの血となり肉となり流れたのだろう。
流れず残ったのは感謝だけだった。
「きょう夜、ごはんはなに食べる?」そう母に聞いた。

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