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スキー|雪が降ると思うこと

「スキー」

視界には細かい吹雪が舞って、30m先は白く霞んでいる。両側に連なる細い木々は寒すぎる温度のせいか、雪すら纏わず風に合わせて枝先を震わせる。広がる雪原を、足だけの感覚を頼りに雪をスキー板で割いていく。増していくスピードに、板と足の骨を通して伝わってくる激しい振動、風を切る音すら後ろに飛び去って、静寂に吸い込まれていく感覚が好きだ。

スキーを始めたのは、いつだったか。母方の実家は北海道で、冬にはすることがなかったのだろう、私は母親にスキーをはかされ、いってらっしゃい、と雪山に放牧されていた。故に誰かと滑るという習慣もなく、雪山には黙々と、一人で向かうものだった。小学校後半には大人の級も取ったりして、ゲレンデに出たら怖いものなんてなかった。純粋に速く滑ることが楽しくて、どこまで耐えられるか試してみたくて、体重が重い方がスピードが出る、と知った時には速く大人になってもっと加速したい、なんて思っていた。

大人になって、スキーを再開したとき、子供の頃に考えなかったことが気になりだした。攻めすぎると耐えきれず怪我するかもしれない、少し抑え気味で行こう、今の滑りはうまくいっているか、下手か。級は一つ上を達成して、客観的には昔より上達したのかもしれないだが、本当はどのように滑っているのか、よくわからなくなったりもする。

疑問符が湧くたびに、心に静かにたまるオリ。そんな状態は普段の生活でもある。遠慮したり、押し黙ったり、様子をうかがったり、何が「正しい」のか探ろうとしている。歳を重ねて「正しい」を選び間違える恐れを知ってしまったのだと思う。

オリは年々深く積もるようで、シーズン初滑りは、もはや自分との戦いだったりする。何本も滑り、何日かかけて、ゆっくりとオリを取り除く。剥がすといった方が相応しいかもしれない。そしてその先に、その年の新たな気づきや体感を噛みしめるのだ。

真っ白な中でただ一人滑る時、自分のことは自分でしか向き合えないことを痛感させられる。

限界に応答するあの感覚を取り戻したくて、自分を信じたくて、今年も雪山に向かう。




幼い頃から通った札幌国際スキー場に愛を込めてこの文章を送ります。

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