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2023 食事と短歌日記 8月

今月は本にまつわることが多かった。
それから、猛暑により、わりに辛抱強いところのある私でさえ、心身が結構疲弊した。
美味しいものはたくさん食べた。

8月上旬あたり

本業があることで、詩歌とのバランスについて悩む。
私の本業は、若者を含め人と関わることが100%で、しかも、感情労働的側面が大きい。良い仕事ではあるが、ハードでもある。いまだに、自分でもよく続いているなと思う。
そう、それで、独立系書店に行くと、個人で本を作っている人の本がたくさん並んでいて、その感じがいいなあ、と思う。でも、それを私がしようとすれば、自費で、出版社を経て、作った時でさえも、わりと気を遣う書類の数々のことがあった。それが頭をよぎる。なんだか、そういう諸々を考え、じわっと焦る。

たしかに本業は社会から危惧されるほど人員や働き方について難しいとこがあって(私は中の人なので、そういう状況にしてきたのは社会にも要因あるよ、社会の要請に応えすぎた結果じゃん、と思う)、時間的拘束の長さが相当気にはなる。
安定、と見られる向きもあるが、それが本業をやっている一番の理由ではない(給料は大事だが)。そうではなく、自分のヒストリー、縁の重なり、本業のしんどさのなかで時に良い瞬間のいくつか、人間についての面白さ等々、忍耐をさらに補強してくる理由がある。
あれこれ考えて、同僚男子にぼやいてみたところ、「僕たちの仕事は競争することはないじゃないですか。それが良いところです」と言われる。彼はすごく仕事ができるので、仕事が集まってくる人である。こういうことを考えながら、しんどいことを一緒にやっていけるというのも本業の良きところというか。

なんか、すごく納得した言葉で、本業はやはり大事に思った。人生のシフトチェンジはくる、
その時に波に乗れるように、今はまだ、ハイブリッドで頑張ろうとは思う。

見える景色、見たい景色、坂を上ると。

8月中旬あたり

なんだか不思議なことに、本のイベントに参加することに、なった。流れだ。人生は流れていく。選択を自分ではしている、ただ、流れはある。
流れの中に身を置くと、物事に摩擦が少なく、スムーズに新しい景色へたどり着くことがある。もがくことはもちろんあるけれど、その中にあっても、なぜだか、大丈夫なのだと思うことがある。
イベントの前夜、思い立って、自分の詩や短歌を印刷しながら、準備をした。紙の物作りはわりと本業で作るので、こんな感じ?と手探りで。デザインや絵をやればもっとイメージに近づくことはできるよな…と思いつつ。子どもの頃、3歳から10年くらい日曜朝に絵画教室に行き、なんだかわからぬまま描いてたことがある。あのよくわからないけど没頭する感じが少しきた。
イベントに出たことはまた別のところで書く予定で、まあ総じて、良かった、出て良かった。本業のところでたくさんの人とやり取りしたり、近いことを経験してるのもわりと役に立っていたと思う。本業はほんとにマルチに私を鍛えてくれたな、と思いつつ、本を介して人と出会う面白さを感じた。中学の時とか本屋さんに週3くらいで行ってたけど、今年は本業が凪の8月ということもあり、久しぶりによく本屋さんに行ったと思う。行ける時にイベントも歌会も本屋さんも、行ったほうが良いというのをコロナでどこへも行けない時に学習したのかもしれない。

それからこの時期、原稿料で本を買う以外に、今後のために写真を撮ってもらった。これもまた、とても、実りある時間で、仕上がりが楽しみ。自分のなかで書いてしまうことが今はもったいなくて、じわじわ時間をかみしめて、言語化したい。写真家の方が歌集を持ってきて下さって(歌人とは伝えていないにもかかわらず)、恐縮した。ありがたい。物を書く人間にとって、自分の本をそのように読んでくださる方には本当に感謝しかない。ありがとうございます。

百合が遠くで綺麗に佇んで、百合が好きだったひとのことを思い出した。

8月下旬あたり

なんだか暑さがおさまらず…。詩が迷走しているため、実作者じゃない詩を読める人に意見を求めたくなるが、なかなかそういう人も見つからない。短歌に関しては、批評や謹呈文化により、良くも悪くも、相互に作品について話をすることがしやすい。歌友もいるし。私の場合、詩はそうではないので、井戸の底から空を見上げる心持ちで時に書いていることがある。
両方やっていると、こうも違うのね…と思うことはあるし、どちらがどうかではないけれど、それでも、短歌の相互に歌について批評できる場があることは、結社にしろ歌会にしろ、意味が大きい。歌友と、スペースで短歌についてゆるく話すことを始めて、さらにそう思った。歌集は、その人の人生の一部という場合や個の部分が大きくて、他のジャンルとは異なる良さがある。私は詩と両方やっていて、それゆえ、救われてることがある。

短歌はゆっくりと詠む。詩は焦ってばかりの時期にあって、少し辛い。そういう時期もあるけれど、手離したりはしない。書くことでさらに書きたいことは募る。

さるすべりが記憶たちを呼ぶんだ。