宗教の独占を壊したい

ふと、なんのために書いているんだろうと
思うことが増えて
その機会が増えると
それは「ふと」の範囲を超えるのだけれど
やっと、いまさらだけれど
ずっとベースに流れていたものを
掴んだ

ずっと垂れ流してきたにもかかわらず
それに無自覚で無意識だったことが恥ずかしい

「宗教の独占を壊したい」のだ
「宗教観を個人のもとに還したい」

もっと別な言い方をすると
「自分にある豊かさをいち団体(や個人)に提供するのをやめて自分自身で味わう」
ということ

この場合の豊かさは「宗教観」だ
拠り所を自分に還す、だ


宗教団体というものがある
宗派なのかな?ま、とにかく宗教で団体しているものが
ずーーーーーーーーっと存在しているのだけれど
その「当たり前」のように存在しているものに疑問と批判を向けようと思う
いや、それをしてきたところがあると思う

そして、代替案を出そうと思う
いや、それもしてきたところがあると思うが、
まだ足りていないし、不明瞭である

話を戻すと
「自分の豊かさをいち団体(や個人)に提供」
とは、
自分の宗教観をいち団体や個人に寄せていた、というか
お任せしていた、というか
お願いしていた、というか
知らないので、そうなのですね、で
支配されていた、ということ

前にも書いたけれど
たとえば、イエスが
「みんな平等なんだよね〜」と言ったにも関わらず
彼の生涯をまとめた本を経典にする団体が教祖を置くってのが意味不明だったり
教祖として立つってのが、どうなの?って思うし
たとえば、釈迦が
「縁起なんだよね〜」と言ったにも関わらず
自分だけの時間軸で原因と結果を操作するような話ばかりが続くあたりが意味不明だったり
対象物を砕いて説明することに意味がないって言っても、
方便に磨きをかけるのが禅かのようにもてはやされる

そんなことじゃないんじゃないの?と

今や宗教も道具になっていて
本質から遠のいている

もっと「今」のために「宗教する」必要があるのじゃないかと思う

これは宗教活動(布教とか経典を読むとか、戒律を守る)ではなくて
個人が今をクリエイトする活動が宗教だ

……

今を充実させる生き方が
「宗教する」ってことだ

んで、具体的に
「宗教観を個人のもとに還す」って
「個人が今をクリエイトする活動」ってなんだとなるのだけれど……

なんだと思う?w
だれか一緒に考えてよw

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