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【映画評】 すずめの戸締り

なぜ、草太は椅子に変えられてしまったか? 

草太はなぜ椅子に変えられてしまったのか。

まず、シーンをさかのぼってみよう。すずめは痩せこけた大臣を窓辺に発見。煮干しのようなものを与え「うちの子になる?」と聞く。大臣はそれに「すずめ 好き」と応える。そしてこの間何も喋らず微笑ましく見守っていた草太が椅子に変えられてしまう。完全なとばっちりである。

なぜ草太は椅子に変えられなければならなかったのか?2通りの説が考えられる。

1つは至極単純に作劇的に必要だからだ。幼いすずめに思い出の椅子を渡すためには椅子を持って日本を縦断しなければならない。「ただの椅子と少女の日本縦断物語」を避けるには椅子=草太とする必要がある。

もう一つはアニミズムだ。母親が椅子を作っている場面がある。完成品を見たすずめは「目はどこ?」とさも当然のことのように聞く。それを聞いて母親は目を彫る。この場面からすずめがその椅子をただの「モノ」としてではなくあたかも生き物のように扱っていることがわかる。これはアニミズムの思想だ。アニミズムとは川には川の神、石には石の神という具合に万物に神が宿っているという考えだ。みなさんも子どもの頃に物や動物に話しかけていたという経験がおありだと思う。つまり、すずめはその椅子を心の底から大切に思っていたということだ。

しかし、時の流れにさらされるとその思いもどんどん小さくなっていく。作中すずめは「いつからこの椅子を大事にしなくなっただろう」と言っている。椅子が実際に命を宿すことはそのすずめがその椅子の大切さを再確認する上で重要な要素となっている。

椅子の足が3つしかない理由

さて、草太が椅子に変身させれた理由は分かった。しかし、あの椅子の脚が4脚中1つ欠けた3脚でなければならなかった理由とはなんなのか?

作中でも描かれている通り3脚ではバランスを保てないので椅子は自立できておらず、変身後も寝ている状態の時は草太の意識がないので支えがないと倒れてしまう。これは何かしらの人間の力が働かなければ自立できないことを意味している。草太が起きている時、椅子は自立しているがこれは草太という人間の力が加わることによって成立している。草太が寝ている時はすずめや他の人間が支えをもたらすことで自立する。これは「モノ」が人間の意思や感情を解することで初めて意味を持つことメタファーと考えられる。

この作品の主要要素である「うしろ戸」は必ず廃墟に置かれている。廃墟とは言いえて妙なものでテーマパークでも学校でも使わなくなってしまえばみんな「廃墟」と同じ名前で呼ぶことができる。テーマパークや学校は人が来なければ意味がない。つまり、意味を失ってしまった場所は「モノ化」し廃墟と呼ばれるに至るのだ。モノとなってしまった場所からは人間の温かさが消え冷たくなってしまう。すると、土地を見守っている神がそこを離れてしまうので「うしろ戸」が開く。

このように椅子の脚が3脚しかない理由はこの作品の通奏低音とも共鳴している。

そして欠けているところがあるという不完全さはトラブルを呼び込むスキマとなってこの作品をより豊かにしている。

芹沢という男

この作品で最もイケてるキャラクター、それが芹沢だ。なんと言っても僕と誕生日が同じ神木隆之介さんが声を当てている。芹沢という男は一言でいうと「昭和」だ。それを象徴するように、オープンカーで昭和の名曲をかけ、細いパンツにサングラスという出立ちでタバコを吸っている。しかし、昭和なのは見た目だけではない。彼は「価値にコミットする」という昭和の価値観を持っている。

作中、芹沢の役割はすずめとおばさんを東京から青森まで運ぶことだがなぜそのようなことをするのか?

当初、その動機として語られるのが「草太に貸した2万を返してもらうため」だ。しかし、終末部においいて「本当は2万を借りているのは俺のほう」と語っており、すずめの旅に随行する理由は「ただ友達が心配だから」ということに終始する。そのために草太がいる確信がなくともすずめの意思にしたがってわざわざ東京から青森まで車で送ることに同意したのだ。なんともいいやつではないか。

この芹沢の佇まいからはトラブル上等というこれまた昭和的価値観が見て取れる。

現在の我々はスマホを持っている。便利なモノで、これさえあれば時間はわかるし、道には迷わないし、タクシーも呼べるし、お金も払える。大変便利なものだが失うものがある。人間同士の関わりだ。昔は時間が分からなければ、もしくは道に迷えば人に聞くことは当たり前だった。しかし、今そんなことをしたら「自分のスマホで調べろよ」となってしまう。

「トラブルが起こるのは当たり前。だからみんなで助け合う。」といった昭和の価値観が今では「トラブルはスマホで解決。」という価値観にシフトしてしまった。だから人間的な繋がりが希薄になるの当然の成り行きで、スマホが普及してしまった以上、そのような価値観から抜け出すのはほとんど不可能だろうう。

作中、すずめと人を繋ぐのはいつもトラブルだった。路上でみかんをぶちまけた同い年の少女と出会ったり、ゲリラ豪雨から逃れるために雨宿りしていたところにたまたま通りかかったおばさんに拾われたり。常にトラブルを介して人と繋がっている。スマホによって便利な世の中になってはいるがその代償にこのような素晴らしい出会いを我々失っているのかも知れない。

戸締りの意味

鍵を閉めるという行為は受け入れるということを意味する。

「うしろ戸」を閉めるためにはその廃墟にあった声を聞く必要がある。それはつまり、その廃墟が廃墟である前の姿、テーマパーク等なんらかの意味を付与されていた時のことを思い出すことに他ならない。

前述の通り、そもそも廃墟というものは存在しない。誰にも使われず、人がいなくなった場所を廃墟と呼ぶように、廃墟はその意味を誰にも与えられないことでただのモノと化している。だから、その意味を想起し供養するというのが閉じ師の仕事だ。本作はすずめが幼少の頃に開いた「うしろ戸」を閉じに行くという物語だが、なぜすずめは「うしろ戸」を開いたままにしてしまったのか。それは彼女が母親の死を受け入れられなかったからだ。映画冒頭、すずめは遠い過去の夢を見るがそれをはっきりとは覚えていない。いや、思い出しだくないのだ。なぜなら冒頭時点ですずめは母親の死を受け入れていないため、その記憶を無理やり押さえつけているからだ。しかし、物語を通してすずめはいくつかの「うしろ戸」を閉め、さらに思春期と複雑な過程環境とによる叔母との確執もお互いの胸の内の吐露によって和解を迎えた。映画冒頭に「死ぬのなんて怖くない」というセリフがある。これは勇敢な人間のセリフなどではなく、孤独な人間のセリフだ。なぜなら、死が怖くない人間は死によって失うものがない人間だからだ。これは叔母さんとの関係や友達との関係も取るに足らないものであることを意味する。しかし、物語末尾では「死ぬのが怖い」と言っている。冒険を通してたくさんの人から恩を受け、恋をし叔母と和解したからこそ言えることだ。また支えてくれる人がいるからこそ母親の死を悼み受け入れ、そして戸を閉めることができた。辛いことから目を背けても逃げ道が続くだけだ。受け入れて初めてそこから新しいスタートが切れる。すずめに降りかかった艱難辛苦、それを通した成長を見ているからこそ最後の「行ってきます」という台詞で我々は心を動かされる。

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