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定年後フリーランス☆老境期に入った私が考えるコスト

 年を取ってくるとまず免れ難く身体が劣化してくる。六〇歳、六十五歳と進むごとに劣化の度合いははっきりとしてくる。それに伴い外からのストレスにも弱くなる。若い頃は、何でもなかったこと、少々の無理がきいたことがしんどくなり耐え難くなる。雇われるにしてもフリーランスでやるにしても、老境期(六〇歳が目処か)に入ってからの仕事については、身体と心への負担は自らがかぶるコストと考えるべきである、と老境期に入った私は思う。

もちろんそのコストは〈(自分自身が負担する)見えないコスト〉、即ち雇い主も仕事の発注主も何ら考慮しないコスト。たとえ認識していたとしても、世間が認識しているよほどの危険や身体的負担を伴う可視化された仕事でない限り、こちらに支払うお金には反映させない。お金を支払う側からしたらできうる限りあらゆるコストを削りたいから当然ではある。

であるから雇われる、あるいは案件の発注を受けるこちらが、〈見えないコスト〉部分のリスク回避を真面目に考える必要がある。老境期に入った後の仕事は、この〈見えないコスト〉をとりわけ仕事を選択する時点でよく考えないと、身体と心を潰す。へたをすると命を落とす。自分が予想していたのより、かなり短い老境期以降の存命となる可能性がある。あるいは生けるシカバネのまま生きながらえざるを得なくなる。

〈見えないコスト〉は二つある。一つは身体への負担。これは分かりやすい。具体的な仕事もすぐにイメージされる。たとえば介護とか警備とか製造工場の作業とか運送とか。他にもいろいろ思い浮かぶ。その他大勢の老境期のひとびとに残されているところのエッセンシャルワークを中心とした仕事。若い頃から厳しい状況下での身体的負担の大きいこのような仕事に携わってきて、耐性の出来ている強靭なひとは別だが、そうでないひとはまず持続しない。ほどなくして身体を潰すことがきわめて多い。身の周りでちょくちょく見てきた。身体を潰す手前でこの類の仕事を手放したひとは運がよい。もう一つは心への負担。こちらは身体への負担より厄介な印象だ。激しいパワーハラスメントのようにはっきりとしたものは分かりやすいが、じわじわと蝕まれて心を潰される(つまり心を病む)ケースがかなりある。それはほとんど人間関係の齟齬からくる。とくに組織に雇われているひと。老境期に携わる仕事の立場上、常に何か言われ続けてそれを凌いで応戦しているうちに疲弊して、気がついたら心が潰されている。加えてかつては輝いていた自分にひき比べての只今現在の不甲斐ない状況に悶々とし続ける。外からも内からも心が苛まれる。ひとたび心を潰されるとなかなか立ち直れない。若いひとだから心的ストレスに強いということもないのだが、老境期に入ってから被る心のダメージは大きい。その状況からは復活しがたい。なかなかに厄介だ。

組織で働いて或いは発注主にサービスを提供してお金を戴くこちら側の視点で言うと、実際に戴いたお金から、〈(自分自身が負担する)見えないコスト〉を自分の感覚で金銭換算して差し引いたううで、その仕事が実質的に戴くお金に見合った仕事であるかどうか、またそれとはべつに純粋に身体と心を潰さないで持続できる仕事であるかどうかをよくよく考えてみる必要があるだろう。老境期の仕事を選択するに際しては。ただ金銭的に切羽詰まったひとは、戴けるお金の額が満足のゆくものであれば〈(自分自身が負担する)見えないコスト〉を考慮する余地などないだろうが、身体と心にじわじわくるかなりの〈見えないリスク〉を被る覚悟が要るだろう。

なんで私がこのような内容の記事を書くかと言うと、比較的はやく(五〇代半ば)定年退職して〈見えないコスト〉を老境期近くになってもろにかぶって、身体を潰して復活できぬまま挙げ句のはては呆けてそのまま人生を終えた父親を見ているから。さらに私も、ちょうど父親と同じような年齢の一時期、そうなりかねない状況に陥ったから。

私の父親は長く陸上自衛隊に勤めていた。かなりの地位まで登って、退職直前にはつねに下には置かれない状態にあったのが、五〇代半ばで定年退職したとたん、現役時の居心地よい状態を或る程度でも保証してくれるような天下り先斡旋はいっさいなく、いきなり丸腰で世間に放りだされた。そこが地獄の一丁目で、何処からどうやって仕事を探してきたのからわからぬが、労基法もクソもない超ブラックエンドレス労働の小さな製パン会社を皮切りに、マンション管理人で初出勤日の朝、いきなり投身自◯体の処理を手伝わされ、傾きかかった地元の自動車販売会社の総務部長で人の首を斬りまくって修羅場を味わい、身体も心もボロボロになり、朝の出社時、自動車販売会社の門前で心筋梗塞おこしてぶっ倒れて、それ以降、うつ状態のまま家に引き籠もり、ふたたび浮上することなく、最後の数年を呆けたまま老人ホームで過ごして息絶えた。
私はといえば一番目の会社を定年退職で勤めあげたのち二番目に勤めた会社(一番目の会社の系列会社)で、アタマの少々いかれた奴に絡まれ、危うく心を潰されそうになった状況を辛くも逃れて、その後、フリーランスのカルチャースクール講師業に転じてより、身体の負担も心の負担もほとんどゼロに近く(つまり〈見えないコスト〉を理不尽に負担することなく)、幸運にもここまでは父親のように悲惨な状況に陥ることなく来ている次第。

取り敢えず先立つモノが必要なひとは致し方ないが、多少でも余裕があるのならば、老境期に入った後の仕事の選択ははよくよく考えたほうがよい。身体および心への〈見えないコスト〉を負わないことを第一義に考えるのが身のためだ。老境期以降の仕事については、お金を第一義におくと碌なことにはならない。


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