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適応障害のお話し1(元開発研究員、中国語発音講師eico、発症するまで)

「適応障害」というプロフィールに興味を持っていただきありがとうございます。わたしは社会人3年目のときに適応障害になりました。フラスコもビーカーも見るだけで涙が出てきてしまい、開発研究員の仕事はできなくなり、英語の力だけで国際ビジネス支援に送ってもらいました。その後、英語コンプレックスを克服し、今にいたります。

適応障害を克服してもう10年以上経ちました。当時、適応できなかった研究所は建て替わり、メンバーもすっかり変わりました。
そろそろ自分の中にため込んでいた思い出を出そうかなと思います。
長くなりますが、お付き合いくださいませ。

進路選択から就職まで

適応障害になるまでの自分は「世間一般的によりよいとされる、楽そうなほうを選んで」きました。
中学3年生で英語中心文系コースの高校と理系コースの高校で迷いました。「理系から文系へは転換できるが、文系から理系には転換しにくい」と聞き、理系に進みました。
高校3年生でセンター試験に失敗した私は受験する大学に悩みました。「一つでも高い偏差値の大学に行っておけば就職に有利だ」と聞き、とある国立大学農学部を目指しました。
大学三回生の就職活動の年は超就職氷河期。研究室の先輩たちや文系の同級生たちが苦戦しているのを見て、大学院まで行った方が就職が有利になると聞き、大学卒での就職を見送り、大学院に進学しました。

損得勘定を計算しながら自分がまだできそうなことを選んできたわたしは、最終的に、大学院農学修士となりました。大学・大学院時代の研究テーマをわかりやすくいうと、果物の実が成る温度の条件や仕組みを遺伝子やたんぱく質から解明することでした。教員や先輩たちはいい人ばかりで、研究室自体は楽しかったです。

ただ、勉強は好きだけど、知らないことを解明することにはそこまで興味がないことは、就職活動であっさり見破られました。エントリーシートを出しまくり、100社程度は受けたでしょう。
企業とまったくコネのない研究室から開発研究職就職の道は大変厳しいものでしたが、なんとか滑り込んだ大手製造業に就職しました。

就職してから適応障害発症直前まで

就職した企業では女性初の総合職技術系でした。周りのみなさんはとてもいい方でしたが、ハッキリと線を引かれていました。仕事は「お手並み拝見」。「頭がいいからって仕事ができると思うなよ」などと研修では言われ、日々神経をすり減らす毎日でした。

地方出身のわたしは就職してからは寮生活でした。おいしいごはんにやさしい寮の管理人さんたち。同期もいっしょ。飲みに連れて行ってくれるやさしい先輩方。順調に滑り出したかに思えた社会人生活でした。

ところが、初の総合職女性に何を担当させるか上層部も考えあぐねていたようで、配属してから3か月ぐらいは放置でした。毎日会社に行き、研修時のノートをまとめ、掃除をし、盛り上げようと無理して話をしては滑っていました(笑)。
やっと決まったテーマは「一番難しい、誰もやったことのないテーマ」。研究員としては「やりがいのある」研究テーマのはずでしたが、自分は何を実験したらいいかすらわかりませんでした。ノートに課題などを書き出してみますが、何も進みません。
見るに見かねた優しい先輩が実験を考えてくれましたが、データをまとめ終わったら次の実験が思いつかない。「次、何をしたらいいとお考えですか?」と周りに聞いてばかりでした。やがて、先輩たちは、「次何をしたらいいか考えるのが仕事でしょ!」と答えてくれなくなりました。当たり前ですね(笑)
そのころ彼氏だった今の夫にも相談しましたが、「(Eicoは)いつも自分で考えてないもんね」と冷静なコメントをくれただけでした。いつしか、会社で退職者の送別会のたびに、「自分はいつになったら辞めれるだろうか」と考えるようになりました。

同期がどんどん成果を出していくなか、毎日暗い顔で研究所に通い、定時には帰る。そんな生活でした。

暇なら、少し世界を広げてみようと、社内のバドミントンサークルと英語サークルに入りました。同じ部署の人はみんな忙しく、サークル活動に精を出しているのはわたしぐらいでした。
バドミントンサークルと英語サークルの日以外は、スポーツジムに行きました。サンバのクラスに毎週参加しました。
帰宅した後は、資格の勉強をしました。食品開発職なのに栄養系のことはさっぱりわからなかったからです。勉強はもともと好きだったので、苦にはなりませんでした。
そうこうしているうちに1年が過ぎ、結婚と引っ越しが決まりました。

適応障害発症

適応障害発症の一つの大きなきっかけは、異動で忙しい研究室に配属になったことです。しなければならない実験は山のようにあるため、実験が思いつかなくて暇、ということはなくなりました。

ラッキーと思ったのもつかの間、正確に多量のデータを集めなければならない焦りから眠れなくなっていきました。わたしが実験に失敗するとスケジュールがずれるため、同じ実験チーム全体に迷惑が掛かります。明日の実験のことを考えると、失敗するのではないかと不安になり、背筋がカアーっと熱くなるのを感じました。

先輩に「実験が失敗するのではないかと心配だ」と相談したら、「失敗したところ、失敗しそうなところを書き出して、実験前にさっと確認するといいよ」と有意義なアドバイスをもらいました。早速ノートに書き出したら、手が止まらなくなり、ますます不安になりました。

ビーカーや試験管を割ってしまうことも増えました。毎日割ってしまったガラス器具を捨てに行くので、清掃員のかたと仲良くなりました。こわい、口が悪いと言われている清掃員のかたは、私にとっては救世主でした。「あんたも毎日大変そうだね。休んでったら?」とお菓子や果物をもらい、休憩室で休ませくれましました。

これまで精力的に通っていたバドミントンサークルも英語サークルも欠席が続き、やがて無断欠席も増えました。ジムも行く気力がなくなりました。
土日は彼氏と新居探し。なかなかいい物件が見つからず、毎週不動産巡りを繰り返していました。

こんな調子でもなんとか会社に行っていましたが、決定打は健康診断の日でした。私は採血で貧血を起こし、健診会場から研究室に戻る途中、階段を踏み外して倒れたのです。

あっ…ぐるぐるぐるぐる…目の前が暗くなり、意識がどんどん遠くなります。なんとか手すりにつかまりながら階段を下りましたが、階段を踏み外した音が廊下に響いていたのでしょう。最後、1階に着いたところで歩けなくなり、うずくまったところで事務員の方と警備員さんに助けられました。

「健康診断が終わったら、あの実験とあの実験を」と思っていたけれど、もうわたしにはそのことを人に頼む気力は残っておらず、警備員さんの夜勤用仮眠ベッドで寝させてもらいました。起きたら、上司から「実験は○○さんが代わりにやってくれたから、あなたは帰っていいですよ。明日は休みを取るように」と言われました。

精神科受診の次の日から休職

次の日、最初にピンと来たのが心療内科でした。電話しましたが、予約は1か月待ちとのこと。病院に行って薬をもらったら会社に行かないと!と思っていたわたしは焦りました。
電車やバスに乗るのも怖い。次は、精神科に電話しました。やはり、予約はいっぱいだ、とのこと。でも何とかして受診させてもらわないといけません。「今日中にどうしても受診しないといけないんです」と必死に伝えたところ、「ちょうど先ほどキャンセルがありました。今から来れますか?」とのこと。わらをもすがる気持ちでその病院に行きました。

お医者さんに涙ながらたくさん話をしました。じっくり聞いてくれた先生は、「はい、適応障害ですね。今日から1か月休みましょう」と言いました。「えッ!困るんです。忙しくて、すぐに戻らないと」といった私に、先生は冷静に言いました。「あなたね、今は休まなきゃ」

次回に続く…


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