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業の負債、お布施、そして資本の拡張:グレーバー『負債論』より

グレーバーによれば、中国の貨幣観は、歴史的に常に表券主義(チャータリズム)的であった。当時の政府の人間は、税の支払い手段を布告するだけで、大抵はどんなものでも貨幣にしてしまえることをよく理解していたという。

国を治めるのに重要なのは資金ではなく資源であり、適切に資源を活用することが、一国の繁栄と安定につながった。そして、そのためには資源の分配を歪め農民を貧困へと追い込む金融勢力(高利貸)への制約が、一貫した課題であった。

例えば王莽は、高利貸への対抗手段として国営の貸付機関を設立し、家計を支え、産業を支援した。「この計画によって、王は、すべての取引をみずからの監視のもとにおき、高利貸の暴挙を永遠に根絶やしにすることができると自負していた」。結局うまくはいかなかったが、国営貸付機関を活用した王莽のアプローチは、「金融の安定は公共財である」(ビル・ミッチェル)とするMMTの視点と共鳴するものがある。

儒教国家たる中国は市場には肯定的でも、資本主義には懐疑的であった。「市場とは貨幣の仲介によって財を交換する方法」(C ーMーC')であり、資本主義とは「貨幣を使ってより多くの貨幣を獲得する術策」(MーCーM')である。資本は政治権力と結びつき、市場の自由を規制する。このことが資源の分配を歪め、富の格差を拡大し、政治も社会も不安定化させるのである。資本主義とは本質的に不安定な現象だ。

中国仏教が弾圧された一因は、その教勢拡大の内在論理が資本主義的だったからだとされる。

宝物庫〔資産〕はつまるところ、儲かる投資の機会をたえず求めている僧院株式会社によって管理された膨大な富の集積だった。それらは、たえず成長せねばならぬという資本主義特有の命法を共有してさえいた。宝物庫〔資産〕は膨張しなければならない。なんとなれば、大乗仏教の教えによれば、真の救済は全世界が仏陀の教えに帰依するまで到来しないからである、と。まさにこの状況、つまり利潤以外になんの関心もない巨大な資本の集中こそ、儒教的経済政策が防ごうとしたものだったのである。
デヴィッド・グレーバー『負債論:貨幣と暴力の5000年』以文社、2016年、p.395

また、今日我が国で問題視されている霊感商法やお布施問題も、突き詰めれば資本が拡張する一つの現れとして捉え直すこともできよう。

純粋な負債の神学あるいは自己の富や生命さえもすべて放棄する絶対的自己犠牲の実践が、最終的に管理された金融資本に誘導されていったということである。…慈善と自己犠牲の行為さえ純粋な寛大によるものではない。ひとは菩薩から「功徳」を買っているのである。
(同p.397)

「業の負債」(karmic debt)という観念のもと、教団へのお布施は業という名の債務を償還する一形態となる。大金のお布施で一家がメチャクチャになることは、側から見れば「自業自得」と映るかもしれない。

だが、教団の内在論理には、それほどまでに個人を駆り立てる強力な作用があることも留意する必要がある。その罪業は償っても償いきれないほど深いものだと教えられた場合、信徒は永遠の贖罪という「債務の罠」に嵌ってしまう。

植え付けられた「負い目」による行いを「自発的」なものと断じてよいのか。もちろん、すべての宗教コミュニティが業の負債と自己犠牲を押し付ける傾向にあるわけではない。出家者への生活支援や活動支援の限りでは、お布施が批判されるものでもない。

ただ、社会的に問題視されるほど注目を浴びるような教団には往々にして、信徒に強い負い目を感じさせ、絶対的な自己犠牲と際限なき金銭的献身を煽る傾向にある。

宗教団体が資本のあくなき拡張を補強し、そして資本は政治権力と結びつき、更に拡張していく。今まさに我が国でとり沙汰されている霊感商法等の問題にしても、政教一致の問題というレイヤーに捨象されるものではない。

参考文献:デヴィッド・グレーバー『負債論:貨幣と暴力の5000年』以文社、2016年、p.386-397。

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