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Ep2 ラフシモンズがデザイナーになることを決めたショー。

 前回の「知られていないマルジェラの美学」の続編で今回も書かせていただきます。

 3. 一般人も巻き込むファッションショー

 1989ssはマルタンマルジェラのブランドとしてジェニーと共同して行う初のお披露目となった。場所はパリの20区。セーヌ川の位置する主に郊外の静かなエリアをチョイスした。。理由は明記されていないが、おそらく一般的な解釈から逸脱した存在を作り出したかったのだと考える。(脱構築的思考)場所は人気の少ない廃墟が選ばれた。

 それまでのパリのプレタポルテに対する理解は派手で豪華、華やかな印象から彼の服はミニマルで、かつ破壊と美、再生がコンセプチュアルな服が登場した。(タビブーツ、再構築の服)

最後にマルジェラの代名詞であるアトリエコートを着たスタッフが並びたくさんの拍手を得た。。。

それから次のシーズンが伝説的なコレクションになる。

4.多くのデザイナーの心を動かしたショー

 89aw 場所は同じく20区の空き地。しかしそこは子供たちの遊び場と化していてすでにたくさんの人が行き来していたマルジェラはあえてそこのエネルギーを使用しようと考えた。ショーの招待状はマルジェラらしい再構築が施された招待状(ビニールなどでりぼんがついていたらしい)に空き地の子供たちにも手伝ってもらいイラストしたものを配った。

 マルジェラが選ぶモデルは有名モデルはなく無名モデルか、一般人が多く起用された。型にはまったものではなく自然体で、ある程度の不適当さが彼の美にたいする表現だった。音楽はベルベットアンダーグランド、ローリングストーンズ、Meredith MonkやAnnette Peacockのような実験的なアーティストの編曲も行われていたという。

 いよいよ本番間近になると、とても狭い待機室の数台のドレッサーにメイク道具が散乱し、ドライヤーを何台も稼働する。たくさんの照明も使用する。そうなると一気に多大な電力を必要としたため、マルジェラのアシスタントチームは近くの家を駆けまわり、コードを一時的に抜いてもらうように頼んだという。 


 座席指定などは存在せず、有名バイヤーや有名記者でも平等に先着順でショーの始まりを待った。ジェニーはVIP待遇の予算がなかったのだという。ショーを見た人の中にはラフシモンズもいた。ラフは当時一緒に行動していたWalter Van Beirendonckと会場に足を運んだ。会場は人だらけで誰が編集者かわからず、床も見えないほどでごみごみしていたらしい。その中でも地元の子供がランウェイにそって並んで座らされていた。

ショーが始まり、マルジェラの指示でモデルは男性的に歩くように指示されていて性的な曖昧さがうかがえた。ドライクリーニングバックがマルジェラの手によりジャケットやチュニック、ドレスに変わった。多くの人が魅了された。ジェニーいわくマルジェラは作品にインスピレーションや正確なアイデアという概念がなく、異なるものをミックスして新しい価値観を生み出すことが好きだったという。

 ショー終盤に差し掛かると、前列の子供たちは集中力がなくなりじっとしていられなくなった。それを見たモデルたちは肩車で子供たちを楽しませた。これは有名な写真として残っている今でも知っている人が多いかと思う。ラフシモンズはショーが終わると涙が止まらなく恥ずかしかったと述べている。周りを見渡すと多くの人が涙してようだった。さらに「私が学生の時はファッションは表面的で華やかなものが魅力的であるとしていたが、これをきっかけに私のやりたいことはこれだと思った。私がファッションデザイナーになった理由です」と述べていてラフシモンズはおおいにマルジェラから影響を受けている。

 最後にジェニーはこう言った。私たちは常に自由でありたい。自発的にファッションの強いものに反応したくない。私たちはただ簡単なショーを作りたかった。ほかの影響は結果にすぎずあまり重要ではなかった。



最後までご覧いただきありがとうございます。

マルタンマルジェラという人物を深く知るきっかけになればと思います。ここからまた現在のマルジェラの服を着るときに違った思い入れで着れるような情報になれればとても幸いです。

ではまた。




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