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朝日はいつの間にか夜になっている。

高く飛んだシャトルを薄目でとらえ、体を傾けながら右足にぐっと体重をかける。カクンと音をたてて曲がる私の膝が、何かのトリガーになった。ゴウゴウと音をたてながら白い点がみるみるうちに大きくなる。

このトリガーによって膝に乗ったエネルギーが全て手首に移り、思い切った捻りと共にラケットは凶器と化す。鋭い音を立てて、ガットの網目にたたきつけられたシャトルは、正面にいるひ弱な少年に向かって急降下していった。尖った、尖り切った白いドリルが彼を殺す。

ぱうん、と音をたてて私のスマッシュは間抜けに宙へ浮いた。高く高く浮いて、私は再度警戒心を強めたが、シャトルが天上スレスレを通り過ぎたあたりで、私の眼球周辺から力が抜けるのが分かった。ゆるゆると落ちてくる白い羽根は壁に当たって、ころんころん私の左で跳ね、静止した。

ずたずたになったそれを拾い上げて、数秒見た後に、体育館端のダストボックスに投げ込む。あんなに爽快な音を鳴らし、美しく直進するシャトルだが、こうなってしまえばゴミ山に混じって遜色ない哀れさを醸し出す。私はシャトルの廃れていくスピードの早さに不思議と魅了され、高校卒業後も酒を飲んでは、締めにバドミントンをやって気分良くなっている。

「キョウカぁ、もうやめようよぉ」
ネットをくぐって謙介が駆けてきた。私はヨネックスのショートパンツにフィットスタイルのシャツを身に着けているが、彼は飲みの席同様、カーゴパンツにオーバーサイズTシャツという出で立ちだ。こんなナめた格好で守りに徹しているのだから、波に乗った私からしたら格好の餌食。好きなだけ鋭角で打ち込んでやることができる。
「もうやめようって、言われなくてもやめるよ。あぁ気持ち悪い」
飲みに飲んだ後のバドミントンは開始して15分ほどは抜群に気持ち良いが、1度休憩を挟めば地獄だ。猛烈な吐き気と怠さが押し寄せ、その場に立っていることも困難になる。私はラケットを投げ捨てて、スライド式ドアのトイレへ早足で向かった。
「これほんときちぃ、全然気持ちよくねぇからぁ」
遠くから聞こえる謙介の声。
私の中で意味がかき回される。

この世の中のあらゆる「メディア」に情報や意味を見出したり、見出さなかったりして、それらは空っぽな乗り物であることが殆どだ。

謙介が飛ばしてくるスローで間抜けなシャトルが落ちるまで、そこには空白が生まれる。詰め込まれた無駄な乗り物を払いのけるように、一筋の光のように。しかし彼といるのは、いつだって夜から朝にかけてなのは何故。

清瀬共花、19歳。


「なぁ、あれ彼氏?」
「違うけど」
「違うだろうなぁ、全然俺とタイプ違うもん」

ベランダの柵越しに後ろ姿の謙介を見る、私と幹也。
幹也のこと最初なんて呼べばいいか聞いたら「ミキヤでいいじゃん、普通に」って言われたっけ。

私は私なりに意味とか言葉とかを結び付けて生きているから、普通どう呼ぶのが正解なのかとか分かんないの、って言おうとしたけど、「ミキヤ」って笑って呼んだら、つるっとした学生みたいな童顔のアラサー≒幹也が私に抱き着いてきた。

彼の体温には私の骨髄を溶かして空っぽにするような魔力があった。そこから私の中に小さく散りばめられていた思考が死に、五感も五感として生きなくなった。

図書館や映画館に行っていた自分が、「そこに体を運んだに過ぎない自分」として括られ、廃品回収へ出されたような感覚だった。

部屋に戻って、缶チューハイをあけて幹也と乾杯する。彼は金がある割にこういう安酒で体を壊すことが好きだった。その理由を聞いたら、「おっさんが居酒屋に入り浸って、隣の知らないおっさん達と仲良くなりたがる理由ってなんだと思う?」と逆質問された。

そこからどういう話になったのかは覚えていない。あれは私が幹也の部屋に転がり込んで数日後の話だった。つまり、既に数か月前の話で、数か月前なんて私にとっては日本史のページ10ページ分くらい前の話であった。

10ページという表現が適切かを考える思考のピンポン玉みたいなものが人工甘味料まみれの波に流されてどっかいって、その後私は幹也とくっさいくっさいキスをした。くっさぁ、私が言ったら幹也は目を細めて、これまた可愛く笑うのだやば殆ど坂口健太郎やんパーマもっときつくしたらほんとに好きになるむり。アルコール臭いのは変わらないし、あー煙草吸いたぁって言ったから、これからもっと臭くなる。でも人間臭さは感じない。パソコンに向き合う時の彼の顔は機械よりも機械だ。

幹也は海外のサーバーを経由して複数のエロ動画サイトを運営しており、その広告費をこれまた海外の銀行経由で洗浄して、現ナマ形式で懐におさめていた。住んでいるのは、私みたいな未成年少女を連れ込んでいても何も言われないくらいに廃れたアパートだが、出かける時の身なりはほぼインテリヤクザで恵比寿や六本木にいい意味で馴染む風貌だった。私も彼の金で、食べたこともないくらい上質なレア肉を頬張り続けている。しかし彼自身の食の趣味はテキトーで、成金がかっこつけて食べるような食事に私が喜んだ顔を眺めた後、コンビニ弁当を2つほど買って、帰るやいなや上裸姿で頬張っていた。そんな姿に不思議な恋をして、私は幹也の腹筋に毎晩吸いつき続けている。

幹也になら殺されても愛されても、どちらでも良かった。幹也に無茶苦茶にされて、茫然と天井を眺める虚無感すらも、彼に因するものだと気付いた瞬間にたまらなく愛おしくなった。それが何故なのか考えることも、昔の私ならやったかもしれない。だけど全然思考がトントン弾んでいかずに、でろーんと垂れて溶けていく。

私はストロングゼロが脳に与える影響を解説した動画が、幹也と一緒になってから異様に好きになった。そこには皮膚が垂れていく中年男性の画像が映し出されていた。不思議と癖になり、何度も何度もリピートし、その動画を切り抜いたショート動画をTikoTokに自分で投稿して、要所だけこれまた何度も繰り返して見たりした。

ここまで書いたような日々の繰り返しを流れるように過ごしていると、ふとした瞬間に謙介と会いたくなる。高校時代に2か月だけ付き合って、サッカー部の試合があるからと誕生日をすっぽかされて別れた謙介。

私がいちいち色んな表現や事物に対して意味を求めて考え続ける姿を見て、「なんかキョウカってかわいいしきれー」と頭を擦りつけてきた謙介。
どれだけ太腿がえろいとか、唇やらしぃとか言われても、全然謙介に言われたら嫌じゃなかった。私は謙介と生きていけば、実のある人生になると確信していた。それが2か月という短い期間だった。

でも会いたくなるのだ。


謙介と会う時のルートは決まっている。謙介より私のほうが若干大人びて見えるから、コンビニからお酒を買ってくるのは決まって私。そして金を出すのは、なぜか決まって謙介だった。

そこから歩きつつゆっくり酒を飲んで、踏切を越えたところにある公園の入り口で座ってガバガバ残りの缶をあけるのだ。できあがったらグラグラした体をぶつけ合ったり寄せ合ったりしながら近くの学校まで行って、ゆるく南京錠がかかった小さな扉を開き、体育館に忍び込む。
そこでバスケをしたり寝転がったりラップバトルをしながら笑い合い、最後にバドミントンをするのだ。

バドミントンで謙介がサーブを放つ瞬間、いつだって哲学的な問いが一緒に飛んでくる。哲学的という表現が正しいか分からないが、「なんで生きていかなきゃならないんだろうな」とか「死ぬってどういうことかな」とか、「楽しいってなんだろうな」っていう、すごく雑で切実な問いが飛んでくる。謙介はいつだってマクロで抽象的で大雑把だ。私は昔から極めてミクロな思考の持ち主だったから、それらの問いを素因数分解して、小さくまとめて問い返していく。

隙間だらけだが分厚い、言葉の山が、私たちのシャトルの行き来に比例して高くなっていく。酔っていて大抵覚えていないが、きっとこれって私が一生続けていたいことなんだろうなと、頭の片隅で思う。
幹也の腹筋に口づけし続ける時と、謙介と禅問答するときは、全く質の違うムラムラした感じが体中に満ち溢れていく。
その末に我慢できなくなった時、私はドライブやクリアーが忌々しくじれったくなって、ひたすら鋭く謙介に打ち込むようになる。謙介はひにひにブロックが上手くなって、私のスマッシュを返すようになる。アルコールも相まって、頭の中が真っ白になって、ただただ打ち込むことが気持ちよくなっていく。


「なぁ、あいつ何なの?」
「なんでもないよ」
「なんでもないだろうなぁ、しつこいなら連絡とらないほうがいいよ」

私はベランダの柵にもたれかかりつつ、幹也の方を見た。彼は映画俳優のような器用さで、口の端だけ持ち上げて笑っている。たまらなく色っぽかった。唇は潤いがなく、肌には乾燥ゆえの粗っぽさがあって、それが廃墟に似た魅力を醸し出して私の喉を鳴らした。

「連絡とらないほうがいいって」
「分かってるよ、ほんとなんで会ってるのか私も分からないし」

そう言うと、幹也は私の方をぎろりと睨んで、笑顔すら消して部屋に戻っていった。

私は柵に背中を預けた。高校時代の私が脳髄の端でうんうん思考をめぐらせ、もう少し年齢のいった自分なら、ここから身を投げているだろうと結論付けた。今の私だから、まだそれはない。まだあの怖ろしい無表情に欲情している自分がいるし、すぐにでも部屋に戻って痣だらけの汗っかきになりたい自分がいると確信できる。

一方で、私が身投げしたら、下にはクッションのように謙介がいるような気もしている。そこには血みどろ脳漿が飛び散ることもなく、バラエティでウケそうな四肢の曲がり具合が再現されることもなく、鬼ピュアな希死念慮と死生観に関する問答が展開されていそうな気もする。

私は柵にもたれかかったまま、頭をあげて空を見た。朝日が若干顔を見せ始め、空に綺麗なグラデーションを作っている。境目はなく、闇はいつの間にか光になっている。

私はしばらく、このベランダから動けない気がした。

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