何も分からない新人だから、手近にあるものは全部使う。【豊饒のデータベース AI生成イラストを添えて】
※分かり辛いです。
援助要請の点で、あまりうまいパフォーマンスが出せなかった社会人生活上半期。おかげで、評価はまずまず。そこまでいい賞与も入らない。
「次から頑張ればいいじゃない」と言われたから、素直に次から頑張るようにしている。ただ、自分が思ったより何もできずに小さい人間だったって気付くの、結構ショックだったりする。
これは、小学生から中学生、高校生から大学生、大学生から社会人と環境が変化した人には当然起こり得るもの。
それぞれの時期で「俺できるな」って自信を持っていればいるほど、環境が変わった時にショックは大きい。
だから、常に「自分なんか」と思っておいて、堂々とするべき時は胸を張るべきなんじゃないかっていうのが、最近の結論だ。
組織マネジメントにおける、目標管理、通称MBO。
自身の設定した目標に対して、その期間にどれだけの働きができたかを評価にしていく。
ここまで都合のいい制度はない。数値的な成果というものが少し見えにくい業界に入ったからこそ、この制度はフル活用しなければならないと思った。
自分なりの目標を立て、下半期は最低、最上位評価のひとつ下くらいには到達できればと考えている。
自分にだけ向き合い続けるのはあまりにも酷だが、その酷さが気持ちいと思えるところまで社会人の世界を駆け抜けてみようと思う。
大学時代の先輩は、最低最悪のところから見えるものを求めて、これから生きていくと言っていた。飄々とした先輩。
その言葉は、まだ自分が社会人をやる前提のひとつになっている。
この社会で社会人として働いていく以上、何かしらの形で最低最悪の未来へ加担していることになる。
だったら、とことんやれるところでやって、終わりが見えたら大爆笑する。
syudou的で、平沢的で、藤本タツキ的に生きる。
それがどういうことかは、生ききってみればわかる。
何も分からない世界に入ってきた人間に、ありがちなこと。
①怯えて、何もできなくなる。
②反旗を翻して抜け出す。
③「何も分からない」状態だと気付かない。
何も分からない状態であることを認めるのは、怖いことだ。これからの道のりが途方もなくなってしまう。
だが、よく考える。
そもそも途方もない道のりなど、誰しもの前にある。
会社の最上位層にいる中年だって、きっと自分たちより前にいる人間のことが気になっているだろうし、自分たちより上にいる人間がいると勘違いしているし、自分の道のりが果てしないと思っている。
だから、途方もない旅の一歩目であることを嘆く必要はなく、それによって自分を否定する必要もない。
誰しもが、毎秒一歩目である。同じことをしている瞬間はない。
同じと括ったのは人間であり文明であり言語である。
本当は、同じことなんかない。毎秒が新鮮な一歩目だ。
だから、素直に「自分は何も分かっていない」と認めることから始める。
ここで正直に言おう。
僕はこの業界のこと、まだまだ全然わからない。
だから、これからどんどん踏みしめていくのだ。
手近にあるものは、全部使う。
Google DriveかOne Driveか、あるいはオリジナルの社内データベースか。
社会人という哀愁漂う傭兵の群れに混ざったならば、それぞれの企業というギルドでデータベースがあるはずだ。
「新入社員研修資料」がどこら辺に格納されているのかの指示が研修担当の人々から指示され、そこに飛んでいく。
だが、我々は人間なので、検索ボックスがあれば色々入力してしまうし、あるいは見られる資料があれば、見てしまうのである。
他の研修資料も、業務マニュアルもコンプライアンスも、膨大な顧客情報にもアクセスすることができる。
Googleを一般ユーザーとして使用していたころとは、また違う宇宙への没入。何でも見られる気になっていたが、何でもじゃなかった。
「機密文書」なんて、ドラマでしか聞いたことがないと思っていた。
でも、見れる。色々な情報が見れる。
今まではネット越しの口コミでしか分からなかった現場の声が、目の前の人から聞ける。
データベースがあるから、そこからどんどん自分の欲しいものを持ってこれる。仕事に関する情報、手法、なんでも。
自分はそれがものすごく感動的で、効果的だと思う。何も知らない状態から始めた人は、とりあえず知ることから始めるのが大前提だと思っていた。
それなのに、なぜかそれをせず、口だけ動かしてミーティングだけ無駄に重ねる奴らも多い。うんざり。
多分、それは自分の意見を尊いものだと思っているから。自分ひとりの中から出てくるものを、信じているから。
でも、僕は疑う人で、何よりも疑う対象は自分自身だ。自分が一番信用できない敵だから。
自分・エゴという忌々しいゴミくずをボコボコに殺すために、積極的に先人が築いてきた豊饒のデータベースに身をゆだねてしまおうと思う。
強く生きていくことは、全能になることではない。
強く生きていくことは、絶えず自分の無能感と向き合うことだ。
自分がこれっぽっちしかできないと、泣きながらも、歯を食いしばって立ち向かっていくことだ。
強く生きていくことは、孤独だと言う。
しかし、それは「強くなるために孤独になるべき」ということを、決して意味しない。
この人は、強い人だと感じる先輩は、援助要請・協力要請にとても積極的だ。
助けてほしい、力を貸してほしいと、助けを求めるのに怖れがない。
強く生きている人ほど、社会は1人では回らないことを知っている。
独裁者の存在を信じる陰謀論者、勧善懲悪を信じてやまない極端な思想の持ち主たち。
彼らの生活を覗いてみた時に、あまりに寂しい孤独な生活をしているのは、きっと偶然ではないだろう。
ここまでが、社会人下半期に入ろうとしている、1人の社会人の結論。
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