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【読書録】柄谷行人『憲法の無意識』(岩波新書)、隈研吾『日本の建築』(岩波新書)


柄谷行人『憲法の無意識』(岩波新書)

國分功一郎「天皇への敗北」(『新潮』2024年9月号)にて引用されていたことをきっかけに繙読。日本国憲法第一条と第九条に関する考察は慧眼。「交換様式D」についても簡単に説明されているので、初めて柄谷に触れる一冊としても良かった。

マッカーサー元帥は、何よりも天皇制の護持を考えた。それは占領統治を成功させるためです。(略)彼は憲法九条を推進しましたが、それを直接の目的としたのではありません。彼にとって大切なのは、憲法一条、すなわち、天皇制を象徴天皇として存続させることでした。

p22
隈研吾『日本の建築』(岩波新書)

書名には「日本の建築」とあるが、筆者である隈が建築史上に自身をどう位置づけているかというところに明らかに力点がある一冊。とはいえ「八年かけて、この一冊を書き上げた(p245)」というだけあって、コンパクトながらも濃い。

日本建築史/建築業界の歴史を何も知らぬまま安藤忠雄や隈研吾の作品をフラットに(それこそサブスクで昭和歌謡とトラップミュージックを同時に楽しむように)好んできた身としては、コンクリートという素材に対する隈の強烈な敵意は諸手を挙げて共感とまではいかない。しかし——本書で直接言及されているわけではないものの——隈の作品に対する世間の批判(「クマちゃんシール」と揶揄される木製ルーバーや補修費用を度外視した木材の多用)に関しては全て織り込み済みなんだろうなということが窺えたし、その言い分にも納得させられた。

本書では建築史において関東(戦後日本)≒西洋/構築性/コンクリート造/大きさと強さ/縄文(ブルータリズム)、関西≒日本/環境性/木造/小ささと弱さ/弥生という対比で論が進められるが、木造を推す肝心の隈自身は神奈川出身の東大卒であることや、打ちっぱなしコンクリートを個性とする安藤忠雄が大阪出身の高卒であることについてはどう考えているのか気になった。

建築ほど、品がいい悪いという評価基準が、頻繁に用いられる世界はないかもしれない。なぜなら、オールドリッチ「既得権益を持つ富裕層」がニューリッチ「成金」に対して浴びせかける形容詞として最も一般的なものが「品が悪い」だからである。そしてオールドリッチはそもそも建築を新たに建てる必要はなく、ニューリッチが、その新しく手に入れた富を手っ取り早く誇示するための手段が、建築という大げさなメディアなのである。すなわち、建築家としては自虐的な言い方になってしまうが、建築とは本質的に「成金」の産物以外のなにものでもない。公共建築、民間建築を問わず、この原則は当てはまる。公共にもオールドリッチとニューリッチがあるからである。
そして西から開けていった日本という国では、歴史的に西はオールドリッチ、東はニューリッチであった。

p98

この品をめぐる関東批判に対して、関東が提示した対抗的な新基準が「粋」であったと僕は感じる。(略)関東は建築ニヒリズムで、関西の「品のある建築」に対抗したのである。

p100

日本において発明された縄文は、日本とコンクリートとの安易な野合の別名であった。縄文という便利なキーワードを発明したことによって、コンクリートは何の遠慮もなく、いかなる罪の意識ももたずに日本の繊細な都市を破壊することが許されるようになった。

p205

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