見出し画像

私が一番頑張っていたころ

あと数週間今年も終わります、誕生日が11月なので、1歳をとるのと新年になるのは同じ感覚です。
今思うに、”良くIT技術者として40年以上頑張ってこられてきたな”と思っています。
私がIT技術者となるきっかけをお話します。
高校を卒業して大学に進学したかったが、家の事情であきらめ就職することにしたが、もう少し勉強がしたいと父(姉から父)に相談して当時はやり?だったテレビ学校(2年生)に入学しました。と同時にあるアルバイトにも精を出していた時期です。このアルバイト先がIT技術者なるきっかけになりました。
アルバイト先はフジテレビのスタジオ清掃です。1年間テレビ学校に通っていましたが、フジテレビ総務方からコンピュータ学校ができるという話を聞きました。
コンピュータ?って何?当時フジテレビのある番組では、コンピュータによる恋人探しなどいう内容は知ってはいましたが、コンピュータ学校に興味がわき、テレビ学校は中退してコンピュータ学校(日本初:1年制)の1期生として入学しました。
そこで問題なのが金銭的なことです、入学金、授業料をどうするかですが、このためにフジテレビのスタジオ清掃の夜勤(17:00~7:00)にすることにしました。
コンピュータ学校はフジテレビの目の前にありましたので、夜勤空け後に通学していました(夜勤は1日おき)。家に帰ることも少なくなり、姉には話していましたが、父に知れる事となりましたが、父は頑張るようにと言ってくれました。
この1年間は、夜勤を連日するときもあり、かなりハードでしたました、この仕事は夜食が出る。食券が割安であったりしたので、以外に食事は満足に食べていました。
あっという間に1年が過ぎ、コンピュータ学校の発行するプログラマー免許も取ることができました。
就職先は「ナショナル金銭登録機 株式会社」(だと思う)に決まっていたが、コンピュータ学校の先生に勧められたのは「(株)日本科学技術研修所 電子計算機センター」でしたので、この会社に入社することにしました。
最初はオペレータとして従事していましたが、半年後にはプログラマーとして従事するようになりました。その後17年間、SE(システムエンジニア)として従事したのち、OAコーディネーターズを開業しました。
「(株)日本科学技術研修所 電子計算機センター」は統計処理を主としていましたが、コンピュータのOS研究やCOBOL開発なども行っていました。
OS研究やCOBOL開発に参画して、コンピュータのハードウェア・ソフトウェアの勉強をすることができました。また、この会社には、図書室があり、休憩時間には図書室に入り浸りコンピュータ関係の技術書を読み漁っていました。
ナショナル金銭登録機 株式会社(株)就職せずに日本科学技術研修所 電子計算機センター就職したことがコンピュータの何たるかを知ることができました。
私が一番頑張っていたころは19歳から25歳だと思う
コンピュータに興味を持ち、その学校に入り、授業費捻出のためバイトに精を出し、就職後はコンピュータのハードウェア・ソフトウェアの勉強を頑張っていた時代だと考えています。
現在に至るまでに「OAコーディネーターズ」を開業後、数々の仕事を受注してきましたが、頑張った時代の要素が礎石になっている事は言うまでもありません。

余談:独身:28歳で結婚、37歳で離婚、子供男の子ひとりを育て上げました。当時の言葉:クレーマークレーマー

この時期は過去にとらわれず、未来にに向けて頑張っていた時期でした
まだまだ頑張りますので応援のコメントをお願い致します。


サポートされる事が何よりの励みになります。日毎に投稿するよう頑張っています。自分のサイトでアクセス数の多い物とか、日経などのメールで気になった内容を情報源としています。