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サミュエル・ベケット著『ゴドーを待ちながら』読書感想文

時代も国籍も明かされないまま二人の浮浪者がゴドーと呼ばれる何者かを待ち続ける話。二人の他に数人の人物が登場するが、さして事件らしい事件も起こらず、結局ゴドーなる者は現れないまま物語は一貫して独特な浮遊感を醸しながら幕を閉じる。シュールで不思議な物語だ。

シュールで不思議な物語、私は何故そう思ったのか?

それは小説や物語に、私は無意識的に"いわゆる物語的な起承転結"や、共感を見出すことを求めているからだ。読後まもなくは、この物語から明確な起承転結や共感を見出す事を私は出来なかった。

そして一つの疑問が浮かんだ。
私は自分の人生においても同様の態度をとっているのではないのだろうか、と。

どうやら私は人生には物語が存在し、自分の人生においていずれ劇的な何かが起こることを求めている節があるようだ。だが結局、人生は劇ではなく、人生は人生であり、劇は劇だ。もし、私が自分の人生において、自分以外の何かが何かを変えてくれる予感を日常的に抱いているとするならば、それは二人がゴドーをいつまでも待ち続けていることとさして変わりはない。

そしてゴドーとは一体何を指すのか。

第一幕の終盤に登場する男の子の話によると、ゴドーは兄には厳しいが弟には優しい、とある。兄弟話において神が兄には厳しく弟には優しい、というのは、注釈にもある様に、旧約聖書におけるカインとアベル、そして古事記における海幸彦と山幸彦においても同様で、世界各国の様々な民間伝承や神話において共通のモチーフだと耳にする。そして、ゴドーという名前がゴッドを彷彿させる様に、まずゴドーの正体は神だと推測される。高橋康也による解題によれば、この解釈は口に出すのも恥ずかしい陳腐なものらしいが、ゴドーが、神、という偉大な存在ではなくとも、それが二人を救ってくれる存在であるならば、それは希望の様なものなのかもしれない。

私自身、エストラゴンとまではいかないにしても、二日前の朝食なんて覚えていないし、十日前に誰と話をしたかなんて覚えていない。そんな曖昧な記憶と曖昧な時間の中で、曖昧な世界を、さながらゴドーを待ち続ける二人の様に、存在するのかも疑わしいわずかな希望を頼りに生きている。

そんな事、この物語を読むまでは思ってもみなかった。習慣は強力な弱音器だ。(p.186)

どこまでいっても人生は劇的ではないが、この劇はどこまでも人生的だ。

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