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芥川龍之介著『鼻』読書感想文

本作『鼻』は顎の下までぶら下がった自身の鼻をコンプレックスとする坊主の話だ。

(引用始め)

長さは五六寸あって、上唇の上から顎の下まで下っている。形は元も先も同じ様に太い。伝わば、細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔の真ん中からぶら下がっているのである。

(引用終わり)p.20

顔にイチモツつけとるやないかい、と真っ先に思ったが、なんでもファルスに解釈するのはいかんいかんと思いつつもネットで調べてみると案の定、芥川のイチモツはかなり立派なものであったらしい。性的特徴に限らず、身体的特徴が生み出すコンプレックスは男女問わず誰もが抱え得る普遍的な問題だ。そんな普遍的なテーマを扱った小説なのかと思いながら本書を読み進めた。

この物語の主人公は僧侶という立場だ。
それも齢五十を過ぎ、内道場供奉という、どうやら僧侶の中でも徳の高い地位に属する僧侶らしい。我々の様に俗世間で生きる庶民とは異なる。そんな立場の僧侶が、長過ぎる鼻というコンプレックスを抱えながら生きている、というのは、仏の道を修行するお方とはいっても我々と同じ人間、我々と同じような悩みや葛藤をお持ちなのだな、とも捉えることができる一方で、宗教人でありながら、身体的特徴という
誰もが抱え得る問題を克服できていない立場不相応な未熟な僧侶にも思えた。

読後、信州読書会による、"キルケゴールの『死に至る病』を精読する講座"の音声を拝聴した。音声によれば、前提として人間は皆絶望しており、その絶望は三段階に分かれる。第一に、自分以外のものになろうとする絶望(美的実存)を経て、第二に、自分自身であろうとする絶望(倫理的実存)、そして最終的に人は信仰に目覚める(宗教的実存)とある。

これらに照らし合わせて見ると、鼻を茹でることによって鼻を小さくすることは、第一の絶望に値し、元の鼻に戻そうとする行為は第二の絶望に値する。物語は鼻が元に戻ったことで、晴れ晴れしたら気持ちに落ち着く僧侶の描写で幕を閉じる。つまりキルケゴールに言わせてみれば、彼は僧侶でありながらまだ信仰にさえ目覚めてはいない。

自身のコンプレックスを、庶民ではなく、あくまで"僧侶"という立場の人間に置き換えたのには、芥川龍之介の宗教人に対する考えがあったのではないだろうか。

村の近所の坊さんならまだしも、仮にも天皇に使える立場の僧侶である。その様な立場の人間が、いつまでもうじうじ悩み、弟子に悟られない様に苦心する姿は人間らしいと言えば人間らしい。その宗教人としての存在の曖昧さに、日本という風土が生んだ欧米とは決定的に異なる独自の宗教感を感じた。

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