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谷崎潤一郎著『卍』感想文 

人は皆、何かを信じなければ生きていけない。
この物語の登場人物達は皆、愛を信じ愛に溺れやがて愛によって破滅する。何かを信じると言う事は何かに依存するということでもあるからだ。


私は、他人に依存し、あまりに求め過ぎた故に破滅する恋愛なんていうものは愚かだと思っていた。死を美化した心中なんてものは理解できないし古臭く浅ましいものだと思っていた。
だがそれは、裏を返せば自分を見失い破滅する程までの愛に私が出会っていないだけであり、死に美を見出す感性を私が持ち合わせていないからだ。経験した事がなく理解ができないが故に一方で私はそれらに対して憧れを抱いている。

およそ100年前くらいであってもこの時代の人達と現代の私達の死に対する憧憬、生(性)に対する貪欲さの差はあまりにも大きい。 

今よりもっと死が身近にあり、生きる事自体が目的だった人間が今ではまるで死は克服されたかの様に隠され、無いものの様になった。生きている事が当たり前になり死ぬ事を忘れながら生きている。文明や理性が発達すればする程、人間は野生を失い生も死も漂白されたかの様に薄まってしまった。

光子の裸体のあまりの美しさに涙を流し、気が狂ったかの様に叫びながらシーツを引き裂く園子の情動は本来の人間の体の美しさを、生の美しさを知っていたからだと思う。現代の私達からすれば園子の行動は気違い以外の何者でもない。その激しさに私は感動した。

誰かを激しく求め依存した末に最後は光子観音などという愚かな台詞を吐き、3人で寄り添い心中する姿はどこまでも欺瞞にまみれ、恐ろしく独善的で美しかった。そして同時に何かを強く信じるという事は時に醜い事だと知った。人を愛するという事、生きるという事はもっと激しく儚いことだった。

それ程までに激しく何かを求めた事が私にはない。気が狂ってしまう程の感動を私は知らない。狂信的に愛に依存したこともない。それ程昔でなくても、少し前まで人間は今では考えられない様な事で一喜一憂し、涙し、感動していたのだと思う。それは同時に自分をも滅ぼしかねない危うさもあるのだが、その様な感性に私は憧れる。

だが本当に気が狂ってしまうと実生活がままならないので、憧れは憧れのままにしておこうと思う。そして何かに依存すること、信じることも、自分の身を滅ぼさない程度にしておこうと思う。


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