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太宰治著『女生徒』読書感想文

子供から大人へ、少女から女性へ、おそらく精神的にも身体的にも人間が最も変化を余儀なくされるであろう一時代、"思春期"を迎える少女の姿を『女生徒』は、生々しく、かつ繊細に描いている。思春期を終え十数年経ち、当時の思いや記憶などほとんど思い出さなくなってしまった私にとって、この少女の姿は懐かしく、過去の自分を見ているようでなんだか小恥ずかしかった。


"若さ"というものが世間では至上の価値の様に扱われている。とんでもない。若さとは、愚かで、未熟で、生まれたばかりの自意識に振り回される野蛮な時代だ。そのくせ子供の様な純粋さは残したままだというのだから、全くもって手の施しようがない。

まさしく「大人になりきるまでの、この長い嫌な期間」(p.135)である。
そして彼女の言う通り、どう暮らしていけばよいのかは、誰も教えてはくれない。

あの時代は、目に入る全てのものが愚かに写り、目に入る全てのものが憎くて腹立たしい。厚化粧をした年寄りや、隣合わせたサラリーマン、自分の母親にさえ軽蔑と侮蔑の目を向ける彼女に、若い頃の自分が重なり苦笑いをせざるを得なかった。そして、こうして俯瞰して彼女を眺める私もまた、彼女からすれば憎くて腹立たしい大人の一人なのだろう。

思春期というのは全てが一致しない。
全てがバラバラだ。
まず、自分の頭の中と体が一致しない。自分の意思とは関係無く急速に成長する体。第二次性徴期を迎えると体は自分とは異なる意思を持った他者の様な存在になる。
次に、自分の頭の中と言葉が一致しない。
どこかで聞いた言葉を、さも自分の言葉の様に思い込み、挙げ句の果てに「どれが本当の自分だかわからない」(p.95)などと、これもどこかで聞いたことのある様な言葉を言い出す始末である。

そして、自分は大人になることへの不安や悩みを抱えたまま身動きができなくなっているというのに、周りの友人達は知らぬ間に大人になっていく。「もち屋は、もち屋と言いますからね」(p.107)と、自分の行く末を見据えたキン子さんの様に。

家族との関係も変化していく。子供の頃の様に家族は自分を守ってくれるだけの存在ではなくなり、自分とは異なる意思を持った他者であることを自覚する。年頃になれば兄弟との距離も遠のく。死んでいなくなってしまう者もいる。そして、子供の頃の様な全能感は徐々に薄れていく。過去の栄光や幸せを思い始めた彼女は、大人への一歩を踏み始めたのだろう。

大人になるほど失うばかりである。
失い始めるのが、思春期なのだろう。

心の中であれだけ軽蔑していた母親が、ふいに我が子へ向けたささやかな真心。
その真心を胸に、母への思いを新たにした彼女。

どうか、その思いだけは大人になっても失わないでいてほしいと、私は願う。


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