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トーマス・マン著『トーニオ・クレーガー』読書感想文


『香川、パンツ脱いだってよ』


表現のあれこれを語る際に、"パンツ脱げよ"という言葉がある。これは、"ええカッコしてやんと、てめえの腹の内を見せろや"という意味であると私は捉えている。何かを表現する時、どうしても見栄を張ったり、自分を大きく見せようとしてしまう時がある。あるいは自分が思っている以上に自分を小さく見せようとしてしまう時がある。技術を凝らし、本当に自分が思っている事は隠す。何故そんなことをするのか。恥ずかしいからだ。恥ずかしいし、もし、本音を見せたところで、それを誰かに否定されたりしたら傷つくからだ。誰も傷つけたくない、という言葉の裏側には、自分が傷つきたくない、という思いがある。何を好き好んで、わざわざ人前でパンツを脱ぐ必要があるのか。だが、私の心を揺さぶるのはいつも、てめえのパンツの向こう側なのだ。

河出文庫版『トーニオ・クレーガー』の解説には、吉行淳之介、三島由紀夫、北杜夫、という名だたる作家がこの作品に大きな影響を受けていたことが記されている。フランツ・カフカがこの作品の熱心な読者であったことは、有名な話だ。何故これほどまでにこの作品は多くの人々を熱烈に魅了するのか。それは、この作品はトーマス・マン自身がパンツを脱いだ作品だからだ。読者は全裸マンに自分自身を見出すからだ。子供の頃にこっそり詩を書いていたこと、自分を否定する事に酔っていたこと、やがて芸術に触れ、人を見下すようになったこと。書き上げればキリがないが、この作品で描かれるあらゆるエピソード、あらゆる芸術論は、今改めて読んでみるとかなり恥ずかしい。トーニオが言う、半分は嘘だが半分は本当だ、という言葉には作者自身の照れ隠しが見える。

10数年前、初めて本書を読んだ時、かなり頭をヤられた。どうヤられたかというと、トーニオは俺だ、と本気で思っていた。マンも三島もカフカも、俺と同じ気持ちだったんだ、と本気で思って、本気で嬉しかった。今も割と本気でそう思っている。というのは、半分嘘で、半分本当だ。

パンツを脱いだ作品好きにとって、パンツを脱いだ作品というのは、パンツの向こう側、そう、魂のアビスで互いに共鳴し合うのだ。

この作品が好きだ、と言うのが恥ずかしい。何故なら、この作品が好きだと言うこと自体が、私にとってはパンツを脱ぐことだからだ。

ずっと胸の内に秘めてきた、私のパンツの向こう側、私のトーニオ・クレーガー。

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