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マイノリティとは自認であって他認ではない:後藤の場合篇

中学生の時分、父親と初めてけんかをした。
それまでにも、学校の宿題で作文や絵の提出があると、ことごとくダメ出しをされるので
「今日宿題に作文があるっちお父さんに言わんで」
と母に頼んでいたレベルの小競り合いは多々あったのだが、このときは明らかに「怒られる」ではなく「けんか」だと自覚した瞬間だった。
(余談だが、父が修正を入れると作文は各段に良くなったし、絵も筋が見えて見違えた。そしてそうした提出物がことごとく何かの賞を受賞するので、娘はますます父に見せるのが嫌になった。その結果、文章を書く仕事をするようになったので、もはや奥歯に挟まった異物は一生をかけて「親不知」だと思うことにしようと思っている)

その、けんかとは。
何かで言い合いになり、口答えをした私に
「お前は可愛げがない。素直に言うことを聞かんか」
と言った父のひとことからはじまった。

「可愛いっち言うのは自分より小さくて弱いものにしか使わん。私は弱い存在にはなりたくない」
娘はこう返した。そしてたたみかけた。
「小さい犬見たら可愛いっち言うやん。女の人には可愛いっち言うけど男の人には言わんやん。可愛いっち言うのは自分より下なものにしか使わんのよ」
いつもなら論破が待っているのだが、このときの父には瞬時に返せる整合性のとれた言葉がなかったのだろう、
「お前はボキャブラリーが貧困や」
と言って先に寝てしまった。


男、女、後藤、の時代

後藤が大学院の研究テーマでフェミニズムを扱ったことは過去にチノアソビでお話しさせていただいたが、修士論文のタイトルは「フェミニズム言説にからめとられる『女性性』とその残響─きしみと反転─」というものだった。

フランスの法律を研究していた先輩(何年大学院にいるんだろうこの人?みたいな人だったけど、文系の大学院にはそういう人が割といる)が一緒に考えてくれたタイトルだ。

後藤はこの修士論文の構成を考えるという作業を通して、自分の20数年の生きづらさの源泉を整理したと言っても過言ではなく、正直大学院で研究したことはフェミニズムではなく自分だったと思っている。

内容は、端的に言うと、それまでの人生、フェミニズムを気にかけてきた自分の在り方が、「フェミニズムの言説にふれていると、自分が女性であることを許せるから」という、実にしょうもない、けれどもそこしか拠り所がなかったがゆえのコミットだったことに気づいた、というものである。

小さい頃から、見た目が非常に少年らしく、高校生のときは隣の女子高からファンレターをもらっていた。バレンタインは、あげる日ではなくもらう日になっていった。
休みの日に友達とスペースワールドに遊びに行ったら、すれ違った男子の集団から
「おい、あいつ、女子あんなに連れてハーレムや!」
と言われたこともある。
割と本気で、「世の中には男・女・後藤の3つの性別がある」といつも言っていた。
この点に関しては、ローランドより大先輩であると言っておきたい。

母のゴールデンアロウ

幼い頃、母方の祖母の家の隣に、マルショクという総合スーパーがあった。食料品だけでなく、衣料品や日用品のフロアもあるタイプのお買い物スポットだ。

ここで、5歳の後藤に、「男・女・後藤」のファーストコンタクトが訪れる。

親戚のおばちゃんと、このマルショクで買い物をしていたとき、衣料品の寝具コーナーに、子ども向けのネグリジェが売っていた。
「ようこちゃん、おばちゃんがこれ買ってあげようか」
伯母がそう言いかけたところに、母のゴールデンアロウがブッ刺さる。
「この子はそんな女の子らしいものは似合わんけん、買わんでいいよ姉さん」

実際のところ、そのネグリジェがほしかったのかと聞かれたら、間違いなく否である。フリルとリボンとレースは、邪魔だしかゆいし好きになれなかった。靴や靴下にワンポイントで入っている小さなリボンも、意識的にむしり取って怒られていた。

しかし。
しかしである。
「この子には似合わない」
と面と向かって言われたことの衝撃たるや。
「そうか…女の子らしいものが『好きじゃない』と思ってきたけど、『似合わない』のか」
これ以降、ピンクからも距離を置き、とにかく「女の子らしい」と言われるものから遠ざかるようになっていった。

その直後、幼稚園の学芸会で「おやゆび姫」をクラスでやることになり、主役はクラスいちちっこくて可愛かっためぐみちゃんが選ばれた。後藤は「川を泳ぐ魚役3」くらいでよかったのだが、満場一致で「ねずみのばあさん」に決まった。
配役がメスなので女子からしか選べず、かつばあさん役みたいな可愛くないものは後藤だ、と、クラス全員が認識していた結果である。

ただし、ソロ役は演技が多く、当然出番も多い。結果としてステージで目立つことになり、逆に保護者の間で「さすが、ようこちゃんはちゃんとした配役をもらえるね」などなど、無責任なことをあーだこーだと言われ、やりたくてやったわけではないのにと、身が割けそうな想いだった。

とはいえ。
申し訳ないが、演技を覚えられないとこの役はできない。
「しょせんあんたたちの子どもにはできんかったんよ」
おばちゃんたちのあーだこーだを見上げながら、そう思うことで溜飲を下げた。ひねくれていると言われる後藤の原初はおそらくここにある。

傷ついたことを傷ついたと言っても許してもらえない、やらざるを得ない環境。そうした陰翳に追いやられながら、脚光を浴びてしまった壮大な矛盾。
後藤には、性別を超えた「優秀さ」しか、生き残る道がなかったのだ。
可愛いだけで許される道は、歩けなかったのだ。

誰かの言う「〇〇ちゃん、可愛くないよね(当時の言葉で言えば「ブスだよね」)」は、後藤からしたらdisではなかった。「可愛いかどうか」という「女の子のフォルダ」でジャッジされている分だけ、自分よりましだ、と、本当に心底そう思っていた。

このツラで、華原朋美

男らしさ、女らしさというバイアスで苦しむ人がいる一方で、そのバイアスに入れてもらえないことからこのやうな苦しみを日々感じ続けて生きてきた後藤にとって、修士論文は自分との折り合いがついた瞬間だった。

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