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美術大学で現代美術を学んだ僕が何故、小説を書いたか④

小説を公開する前の前書き④

大分前のことで、記憶が曖昧だけど、確か公募のタイトルが「100人の詩人たち」だったと思う。そしてお題が「翼の記憶」。

僕はこの頃「記憶」について深く考察していて、描く絵も「記憶」をテーマにしたものばかりだった。だから、このお題を与えられた時、真っ先に「書いてみたい」と思い、応募したのだけは覚えている。

結果、僕は「詩人」に選ばれた。

初めて、自分の作品が本という媒体に記載された時は震えた。紙に宿ったその文字を手でなぞり、匂いを嗅ぎ、抱きしめた。

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僕が次に挑戦したのは「エッセイ」だった。これもある公募に出して、佳作を頂いた。これは後で「同人誌」となって残っている。

さて。

小さな公募だったとしても、立て続けに「カタチ」になった文字の羅列を見ていたら、僕はもっと書きたくなった。そして「ブログ」を書き始めた。ブログの目的は「文章を毎日書く習慣と、文章を書く力」を養うため。つまり、訓練だ。

そんなこんなで、とにかく毎日ブログを書いた。

すると、ひょんな所から仕事が舞い込んできた。地方のフリーペーパーの執筆、そして当時勤めていた会社の機関誌の取材文を書くというもの。どちらも全く未経験だったけど、僕は夢中になって仕事としての「文章」を書く毎日を過ごしていった。

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そんな時、突然起こった「東日本大震災」。

僕の、いや東北の人達の生活はメチャクチャになってしまった。真っ黒な津波。乱暴に奪われた沢山の命。10年経った今も、その爪痕はまだ消えて無くならない。

僕はその時、体がいう事をきかないくらいの大きな揺れの中で、なぜか頭の中でこんな声が聞こえていた。

「絵はともかく、文章がいいね」

その時、気が付いたんだ。あの日、僕の前に現れたバックパッカーは、多分僕だ、と。

僕が遭いたかったもう一人の僕を、僕が創り上げた。そして白昼夢のごとく場面として成立させ、僕は地球を一周してきたであろう、もう一人の自分と対話したのだ。

僕はやりたいことを、いや書きたいことを書くと決めた。美術の大学に行って、文章の書き方なんかまるで知らないけど、絵画を描くように文章を書くと、その時決めたんだ。

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しかし、小説を書くということは。安易ではなかった。世の中の小説家を本当に尊敬した。すごいよ。書ききるって。それすら出来ない僕は、まるで無力の果てに放り投げられた幼子の気持ちだった。

破滅的な気持ちは、さらなる破滅を生む。

紙にプリントアウトしたら、データが消えた。その時は何とか書き直した。紙ベースで文章は無事だったからだ。そしてなんとか最終章まで漕ぎつけたある日、またデータが消えた。2回目に消えた時は「終わったな」と思った。「もう書くな」と言われたような気がした。

誰に?

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そして、昨年のコロナの時期に、僕は最後の挑戦を決意した。僕はあと半年で死ぬと設定し、真っ新な雪みたいなこのテキストに再び小説を書き始めた。ブログを毎日書き、会社で機関誌の文を取材して書き、地方のフリーペーパーの記事を書き、完成寸前の物語を二回書いた僕には、力がまた蘇って来た。

僕は多分、文章は下手だ。でも伝えたいことがある。それだけを糧に、僕は小説を4か月で書き上げた。

それが、これから公開する小説「清ら」。一つの不純物すらない、自分自身が読みたかった小説。僕は、思いっきり泣く場所が欲しかったのかもしれない。



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