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【エッセー】回想暫し 1 文学とともに

 小説を書き出したのは、年齢的にかなり遅い。而立の齢を二つ三つ過ぎていた。地元の同人誌に入れてもらい、毎号に発表した。いくらか巧くなったものの、それ以上にはならなかった。
 高橋和巳が亡くなって以来、純文学への関心は薄れ、高橋以後、どんな作家がどんな作品をものしているかを知らない。手に取るのは漱石、鷗外、芥川竜之介、横光利一、椎名麟三、堀田善衛、田宮虎彦、福永武彦等々古い人の作品ばかりである。
 四十にしてなお惑い、やがて命を知るべき齢が迫った。このまま老いてゆくのはいささか無念である。何とかせねばとおのれに喝を入れ、中間小説ふうの歴史物を書いた。何らかの賞に応募するのが一般的であろうが、そういう作品に仕上がっていない。当時めざましい活躍をしていた名古屋の海越出版社に送った。読んでほしいと。音沙汰なく、こちらが忘れたころに電話があった。これこれを書き直してよくなれば、出版してもよいと。卓越せる編集者にして畏友となる天田氏との出会いであった。
 この人は、編集者としての切れ味が抜群のうえ、ほかにもさまざまな才能に恵まれていた。いつぞや、天田氏に単行本一冊ほどの分量の原稿を読んでくれと頼まれた。すぐに読みはじめた。
 私は速読が嫌いである。無理して速読すると、最後は何が何だかわからなくなる。しかも疲れる。必ずしも読みが遅いほうではないが、一般的に本一冊読むのに七、八時間くらいはかかるのではないか。根を詰めて六時間ほどで読了した。それなのに、天田氏にどうしてそんなに遅いのかと不思議がられた。彼は一、二時間で読んでしまう。しかも、ツボを私以上にきっちり押さえ、何ページ何行目のあの表現、ちょっと気になるが、あのままでいいかなどと、メモを見ることなく指摘する。こんな人は見たことがない。聞いたこともない。世のなかにはすごい人がいるものだと、真底、驚いた。
 
 私の文学の師、同人誌主宰の故間瀬昇氏は、尾崎一雄の「下向いて書くな」を引いて、自分より優れた人、同格の人に、これが自分の精いっぱいのものとして差し出す、それが文学だ、と言う意味の言葉であると語ったことがある。
 同人のなかには、下を切り捨てるのは傲慢だと、批判する者がいた。私は釈尊の『スッタニパータ』に似ているなと思い、間瀬師に与した。釈尊は自分よりも優れているか、等しい者とともに行け、いなければ独りで行け、と言われた。
 後年、天田氏に、読み手にわかりやすいように書いたからといって、作品の質が落ちるものではない、と何度も注意された。わたしは書き改めず、この人はわざわざ売れないように書いている、と天田氏を歎かせた。とどのつまり、私の作品は売れなかった。にもかかわらず、天田氏は出版の機会を開拓してくれた。
 
 魏の曹丕(文帝)は、「文章は経国の大業、不朽の盛事なり」と言った。末端なれど、これに携われたのは、天田氏と間瀬師、そして妻のおかげである。


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