見出し画像

僕を作ったターニングポイント①

僕は広島県の中都市の生まれで、その中でも一番端っこの田舎で高校卒業まで育ちました。約25年前の当時は、周りにインターネット環境もなく進路の情報収集は学校の進路指導室か、近くの本屋で「進路、●●の職業に就くには?」のような本を読むぐらいしかありませんでした。
幼いころから映画を作る仕事がしたいと思っていましたが、近所の本屋には映像の職業に関する本は2冊しかなく、さらに映画を作る仕事をするには2通りしかないんです。というような今思えば極端な内容だったのを覚えています。

一つ目が、超一流大学を卒業して、有名な映画会社(東宝や松竹など)に就職し、制作クリエイティブ職に配属されて、色んな現場で経験を積んで監督業やプロデュース業に就くという方法。
二つ目が、当時主流だった映画クルー(黒澤組や北野組のような制作チーム)に、どうにか伝手つてを使ってバイト的にでも入り込み、可愛がってもらいながら一人前になっていく方法。

今思えばどちらも険しい道なんですが、当時高校生の僕には、一つ目の方法の方が確率でいうと数万倍難しそうに感じました。一流大学という点で難易度が高く、そこから大企業に就職する競争に勝ち、クリエイティブ職に配属されるという偶然が重なる。という確率と比べて、二つ目はどうにか伝手で潜り込んで、可愛がってもらい現場で修行する。という根性でどうにかなるんじゃないかという希望が持てる方法だと感じました。そしてこの二つ目の方法は、とりあえず若いうちにクルーに仲間入りして、現場に長くいることでチャンスを手にする。という方法だと解釈をしていました。

高校も成績良い方ではなかったし、早く働きたいという気持ちが強かったので、出来るだけ早く卒業できる専門学校に入って、そして業界の近い所にいれば映像のバイトなどで伝手が出来るんじゃないか、そして伝手が出来たら辞めるつもりで専門学校に入学しました。

ただ入学をして三ヶ月もした頃には、未熟さというか友人との「格差」を痛感していました。
当時はwindows98が発売された後です。田舎育ちの僕の周りには、自宅にインターネットがある家庭なんて聞いたこともなかったのですが、東京出身の友人の家庭にはインターネットが使える家がかなり多かったのです。それだけであらゆる情報格差があって、理解不能な会話が行き交っていました。
衝撃的だったのが、友人の一人が最新MacintoshのG3を買って映像編集ソフトを買ったという話。その話を友人みんなが一斉に「いいなー」って羨ましがっていました。当時の僕はMacintosh自体も聞いたことがなく、なにそれ?状態。映像制作を志す友人達は、高校時代から秋葉原でパソコンを見たり聞いたりしている友人が多かったので、Macintoshは当たり前に知っているものだったのです。

パソコンやデジタルの知識だけではありません。大都会東京で育った青年と近所に本屋が数件しかないい場所で育った人では、体感する情報量が違って、いわゆるトレンドのようなものや遊び方、色んな場面で自分の無知を痛感することが多くありました。今の世代だと日本中でほとんど情報の格差は無いと思いますが、インターネットがある環境と、無い環境のちょうど狭間だったので、一番格差があったのではと思います。

こういう時代背景も含めて僕のターニングポイントだったんじゃないかと思いますし、これ以降、色んな情報を知っておきたいという感覚が生まれたと思います。
そして「早く働きたい」という希望もなくなりました。
働く前にもっと色んな経験や幅広い知識を蓄えないと、映像の仕事だろうと何の仕事だろうと、無知すぎて生き残っていけないなと感じたので、卒業後にすぐ働くことはせず、色んな地域や職種でバイトしたり、海外暮らしをしたり、色んな寄り道をしました。

でも、この寄り道の期間も、何かしらパソコンには触れてないといけないんじゃないか?という恐怖心から、タッチタイピングや映像編集ソフトを使うためだけに、ネットも繋がらないノートPCを持って放浪していました。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?