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未熟だった僕が映像業界で過ごした20代と愛に溢れる強い先輩方。

東京では、二十代後半まで映像制作の仕事をしていて、色んなジャンルや規模の映像制作に関わりました。
僕の周りにいた、厳しくも愛に溢れる先輩たちの話です。

予算の少い深夜ドラマやCM、企業のプロモーションビデオや音楽PV、MTVなどの音楽番組、スノボDVDや韓国ドラマの日本語ローカライズ等です。
まだ働き方改革という言葉がない頃の映像業界、数日家に帰れないことは普通で、且つ業界的にも広告予算が激減していって、かなり過酷な頃だったと思います。
現場でのロケ弁や制作費でご飯が食べられたので、何とか生き延びられた二十代でした。

思えば色んな先輩達に助けてもらいながら、何とか仕事が出来ていたように思いますし、むちゃくちゃ失敗も多かったのでたくさん迷惑かけました。

今でも思い出すのが、年末特番でその年にヒットした洋楽TOP100みたいな6時間番組を作った時の事。
編集も終わった最後にナレーションを吹き込む作業があり、TOP100のアーティスト名、曲名をナレーターさんに声を入れてもらいました。6時間の番組なので吹き込み作業が終わったのが深夜3時。ナレーターさんにはタクシーで帰宅してもらいました。最後のチェックをしていたその時、ナレーション原稿にミスがあり、アーティスト名を間違えていた事に気づきました。しかも気づいた時間は朝の6時。当然ナレーターさんは帰宅して自宅で寝ている時間です。その日の夜が放送日だったので別日にすることも出来ず、先輩のプロデューサーが直接ナレーターさんを電話で起こして、すぐに来てもらったことがありました。

他にもディレクターが一番撮りたいと企画段階から言っていたシーンを撮れなくしてしまったり、ライブ撮影していて一番良いシーンでピンぼけさせてしまったり、数え切れないほど失敗しました。

終電終わった後に社用車で先輩ディレクターを家に送り、自宅で編集作業をずっと隣で見ていたり、別の先輩の自宅に終電間際に収録素材テープを届けて帰れなくて途方に暮れたり、撮影前日は朝まで一人で機材チェックや積み込み、小道具作りをしたり。。
映像業界の古い慣例や先輩たちの無茶振りのおかげで、二十代はずっと軽い鬱状態だったように今は思います。

ただ、個性的で恐くてヤバい先輩方ばかりだったけど、不思議と愛情は感じられていて、当時は、それは一緒に過ごす時間が長いから。という感覚で受け止めていました。
でも当時の先輩方も、数年前までは先輩から無茶振りされていた方たちです。
映像業界を離れて感じたことは、その辛さや孤独さも知っていて、それが「表現力やセンス」という見えないスキルを活かして仕事をしながら、いつ仕事の依頼がなくなるかわからないという恐怖と戦うための準備期間であり、クオリティーに妥協せず映像作品に「向き合う姿勢」を学ばせてもらってたんだなと思います。

20代の頃は、僕自身はこんな風には考えられなかったので、「後輩にあんな無茶振りする先輩にはならないでおこう」という風に考えていました。

今でもその先輩方のSNSなどで近況を見ると、まだその恐怖と戦いながら(大御所以外はみんなその恐怖があるとして)映像のお仕事をしているのを見ると、本当に強い先輩方と仕事をさせてもらってたんだなーとつくづく思います。

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