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錠剤を流し込む

私は現在五種類の薬と一種類のサプリメントを使用している。
朝に飲むものと夜に飲むものとで別れてはいるが、飲むタイミングは大体食後で、四錠くらいの錠剤をまとめて口に放り込んで水で流し込んでいる。
喉を錠剤が流れていく感覚は独特のものがある。

数年間続いている習慣なのでなんということはないが、傍から見れば結構大変そうに見えるのかもしれない。
私も昔、映画だったか小説だったかで、錠剤をザラザラと流し込む人物の描写に迫力を覚えたものだった。
今の私の状況だと、「ザラザラと」とまではいかないので、未だに少しああいった描写にかっこよさを感じている。

瓶ごと錠剤をあおってボリボリとかみ砕いたり、大量のアンプルを握りつぶして口に流し込んだりと、そういったアメコミめいた外連味のある描写。
私の脳内にイメージとして存在しているこれらのアイデアは、最初にどこで見かけたものなのだろうか。想像できている以上元となる像があるはずだが、どうにもどこで見たものなのかが思い出せない。

現実でそんなことをしていたら確実に濫用に当たるので絶対にできないが、やはり異常性や狂気、深刻さを示すのにはうってつけの描写であるからこそ、よく使われているのだろう(私はあまり映画を観ないので今でも使われ続けているアイデアなのかは知らないが)。
となると、「そうした行為は異常である」という書き手の意図が先だって存在していたはずで、その意図が存在するためにはやはり現実にその手の異常な濫用ないしそれに近いものがモチーフとしてあったに違いないと思う。

実のところ、私も自分の希死念慮がピークだった頃に、薬を溜め込んでからの過剰摂取による死を何度か想像したことがある。
まぁ、薬をかき集める方法が難しかったのと、必要な薬の量が余りにも膨大であることを知ったのとがあって想像止まりに終わってくれたが、今考えてみれば、フィクション的濫用は現実にも起こりうるものであり、それは私にとっても少し間違えれば発生していたかもしれないのだ。

「ザラザラと」薬を飲むようなことは、「外連味のあるフィクション」の範疇に留めておかなければならない。
現実にも発生したであろうそれらの濫用は、例外なく致命的な破綻を迎えたことだろう。そして、希死念慮を薬で飼いならしてなんとか生きている私にとって、それは決して他人事ではない。
映画のワンシーンのような死に方はフィクションだからこそ迫力を感じるに留まっているのだ。きっと現実の当事者には凄まじい苦痛があるに違いない。私という命の終わりがどうなるか分からないが、そうした壮絶な終わりは迎えたくないものだ。

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